2019年10月16日

肩書を巡る演技性サロンの信用ならなさ

ツイッターは途中でバカッターといわれてたけど、確かにその通りで、世間的には高い学歴を振りかざしたりしつつ知識人ぶってる人とかの日常を見ると、特定の時点でのある紙の試験成績結果とか科学知識の絶対量と、その人自身の一般的な賢さに、個別では特に比例関係がない実例が日々あらわになる。
 制度的に作られた賢さの偽装。
 特に東京圏や京都圏は、どういう理由でかは知らないが(都市圏の規模より、どうも大学の数的集中や東大・京大閥と関係している?)、普段から国内の他地域に比べ激しい学歴社会の傾向がある様にみえるので、その文化内で威張ってる人達のツイッターは見世物になっている。
 つまり、その学歴社会の中で重要なのは、あるキャラクター・人格の演技である。実態なき俗物根性を、演者当人も観衆も満たすのが、当のさかしら秩序の中では主要な需給関係である。なので、位階制秩序なるものを乱す例外者、つまり実力主義に基づく真の知性は、俗物ゲームの中である種の排他対象になる。
 特に、その種の学歴俗物らは一般に、自分が演技によって飯を食っているという自覚が意識的・言語的にではないかもしれないが薄らぼんやりとあり、自分に収益なり尊敬なりが集まる秩序を乱す者を、ツイッターでもユーチューブでも進んでブロックし、演者自身の悪意が激しいとき晒し者にしたりしている。

 だが、このえせサロン社会みたいなのは、学会、芸術家サロン、もしくは文化人サロンもどきにはどの時点でも、どの国々でも、多かれ少なかれあった様な気もする。もちろん質の高いサロンにあっては実力主義が徹底されているわけだが。確かアインシュタインも学士だったし、排除対象になっていたろう。

 これとは全く別に、賢愚の判定は社会的証明を除き自分の知能との一定の類似性によっているので(さもないとよしあしを認知できない)、ツイッタラーなる者はフォロワー反響室に入り込みやすい。これが知性自体に反するのは言うまでもない。延いては、演技的サロン空間も同様に、知性に有害なのである。全く自分の意見と違うばかりか、しばしば言語的にも全く遠い知見をできるだけ多く見聞きし(質が違うほど往々にして認知すらできないのだが)、自分の常識を絶えず希釈し続けるのが本来の開放性だろうし、また賢さ一般を高める唯一の手段、いわゆる学びだ。が逆に学歴主義は知の開放度を低めてしまう。
 茂木健一郎氏と堀江貴文氏がツイッターでブロックしない方針を掲げているのは、この知の開放性を高め、絶えず自見から遠いが未知の重要性へのアンテナを張り巡らす手段としては最低限度、必要なものと思う。それだけでは十分でなく、進んで異言語圏とか異質な他者、自分と異なる生態を研究するべきだ。
 ここからいうと、アカデミズムは徐々に時代遅れになっている様な実感もある。様なというか既にそうな気がする。大学教授は革新が激しい産業界やその風下で激しく変化する流行の先端についてこれないし、専門知と呼べる領域も一種の象牙の塔の様になっていたりして、演技性サロン化している時さえある。プラトンがアカデメイアを開いた時も、幾何学を入学条件に掲げた逸話もあるから、孔子は逆に一応の礼儀として束脩しか要求してなかったと思うが、既に西洋側にはピタゴラス学派の時点で閉鎖的教団性が発生していた様な感じがする。いずれにせよ大学の箔づけ免許機能は、知の開放性には摩擦抵抗と思う。
 確かに実用的専門知を産業界に応用しえた人達が起業家として、特に米国で商売英雄・女傑(今のところ女傑はしらないんだけど)化してきたと思うが、ビルゲイツもジョブスも、ザッカーバーグさえ高卒だった訳で、アカデミズムの高踏的閉鎖性は益々、社会的要請とのややこしい矛盾に遭い混迷すると思う。
 だからユタボン的ルートというか、オンライン自宅学習で十分じゃん、となるのは21世紀以後の人らはもう常識とするのは目に見えているのだが、学歴差別による位階制の馬乗りを利用して既存大企業なり公務員になりたがってる今の若者の大勢は、まあいってしまえば負け組的な多数派となるのかもしれない。そしてその種の、時代の枢要な流れに乗り遅れてしまっている群衆に媚びを売りながら、演技性の虚栄で飯を食っている、肩書知識人みたいな人達、そんでしばしば御用学者・作家かねてる安倍友の皆さん沢山いるけれども、当然ながらいつまでもそんな袖の下関係が続く筈もない。今様の徒花なのだろう。

 冷静にバカッターを観察し、かしこぶっているえせ文化人を、あるいは僕がそれかもしれないんだから僕のこの言動をも疑いつつ、時代の本質にある流れに乗りながら、真の知とは何かを探求する。もしくは学術自体を問う。産業自体の進歩を図る。善政を叶えていく。肩書の演技に騙されないのが大切と思う。