2019年10月18日

善意志の結果としての公徳と地位の一致あるいは永久革命論

慈善活動を地位の強化目的にみせつけて、又はそれより幾分ましだが普段の贅沢三昧や不公平の上位者にも関わらず、自分が良識的な人間だと信じ込むべく(相手にとってありがた迷惑でも)行う傾向は、いわゆる偽善といわれる。前者を強度の偽善、後者を軽度の偽善と定義すると、これらは真の善ではない。
 真の善は、自分以外の善良でありながら不利な位置にある人々への無償の救済措置でなければならず、そこには自分の地位を補完する要素があってはならない。敵に塩を送る如く、自分が損する要素も含まれ、究極では純粋な自己犠牲を進んで、自主的に選び取る善意志そのものである。またこの善意志の目的は、それ自体である。すなわちいかなる他の物事の手段でもありえず、善意志こそこの世界で理性にとって単にそれ自体に目的がある、唯一の自己目的性である。我々人類の最高善は善意志自体であり、それはより一般化すれば自己目的な利他性である。
 より悪徳に満ちた人と、より善徳に満ちた人がいると、ある人の理性に判定できる時、そしてこの判断が或る道徳論にとって相対的に正確に、他より利他性の高い人々を見分けている時、博愛(アガペー)の実践にはより優れたものとそうでないものがある。仏陀が慈悲の対象を見分けていたのはこの為である。
 文明もしくは単にある人間関係の究極目的は、無制約な利他性の追求である。予てから身分制秩序を作っていた人々(今日でいう皇室等)は、他人を程度あれ奴隷化し洗脳し、搾取し収奪し、いわば利己の手段にしていた以上、善き人々ではなかった。彼らは暴力によって悪意志を正当化してきたのだ。

 人類界にとって善意志は、他人を目的として扱う質を無限に高めていく方へと展開していく。同時に、意図なしに他人を手段として扱う要素を、最大限逓減させようと図る。ある人が善い人物だと判定される度合いは、結局、この善意志を体現していると或る他人にみてとれる濃さによっている。
 また道徳相対主義にみられる様、異なる判定の癖をもつ他人にとって、ある人の利他性が実際には彼我またはそのいずれかより高いにもかかわらず、濡れ衣を着せられている場面がある。しかし、この誤った評価はある時期の過ちで、結局のところ業が遠からず解消していくだろう。こうして救いとは業なのだ。善業を重ねるよう諭していた聖人らは、人類全体の生存目的が利他性だと正しく見抜き、その具体的なあり方を様々な癖によって説いていた。実際、今でいう宗教として集団信仰化していなかった段階でも、善意志の行動的側面である善業の自己目的性は、彼我に救いと認知されていた。

 我々が現実に為すべき全行動の唯一の目的は、斯くして積善的な業になる。それは単に自分が救われると信じる為ではない(例えば仮言命法の一切は、弱い偽善にあたる)。我々は善く思い、善い行動をとるべくして社会的動物なのであり、単に利己性を極め皇室その他の上位者と名乗る業は、反公益的である。
 金銭その他の資本についても同じく、他人より大きな資本をもっていると顕示し、地位の目安などにする下賤さにはなんの善性もない。我々がこの社会で資本を有するのは、その寡占や独占の為ではなく、他人により益する人に、より重い負担を背負わせる為なのだ。こうして資本は責任のいいかえである。地位という社会関係資本があるのも、より高い身分に伴う義務(いわゆる貴族の義務、noblesse oblige)を進んで背負うべき人々がいる為であり、それは我々の間に公徳なり公知が誰もに等しく与えられていないからである。指導者が革命や交代にあうなら、基本的にはこの義務を十分果たせないからだろう。
 勿論、より公徳(広くは各公共的知識やその応用も徳の一種なので、公知も公徳に入る)の劣る人物が、誤って上位に就いてしまう組織があり、このときその集団は意志または行動の失敗で他集団より劣悪な結果を出す。我々が集団単位でもより善良でありうるのは、より優れた公徳の指導者がいる為である。

 義公(徳川光圀)は、自称天皇の地位が代がわりに於いて不動で、次位の権力者が交代してきた天皇家界隈の政治史上の結果から、この原則を大義名分と定義し、今日の象徴天皇制の理論的基礎づけをした。だが地位が公徳を伴わないならそれは擬制であり、結局は巨視的に指導の混乱になる。天皇は一宗教祖として政府と無関係に存続されるべきであり、それこそ公徳でなく世襲によって地位を維持している人々にとって唯一、貴族の義務と矛盾せず振る舞える処世である。公徳は血統にではなく、ある人の才(広く心を含む)に与えられているので、政の序列は個人の公徳次第でなければならない。
 義公に続く烈公(徳川斉昭)は、祭政一致を『弘道館記』上に定義し、神道教祖たる天皇と日本国政が象徴的に一致する今日の政府のあり方を、義公による大義名分論の延長上に理論化した。これらの考え方は為政者の公徳を無視している点で擬制論に他ならない。神道教祖一族は政府の外で儀式すべきなのだ。政教一致原則は、フランス等の世俗国家で憲法上に唱えられているが、実際にはいかに新たな政治思想も一種の宗教(信仰や信念等)でしかなく、本質的に今日の日本国憲法上の政教分離も他国と同じく、同原則の矛盾を孕む。だがこの二重基準は、公徳次第の地位と考えれば持ち上げられる(止揚される)。嘗て中国史上、易姓革命論によって、世襲皇帝は新たにより高い公徳をもつ君主から放伐されるか、禅譲で天命が実現されると考えられていた。この考え方は、少なくとも公徳次第の地位を絶えざる革命権の行使によって再生しようとした点で正しかった。今日の行政でもいわゆる永久革命を採用すべきである。
 義烈両公は、江戸時代から平成時代までの期間、日本国政の規範となる政治論を唱えた。それは易姓革命を否定する日本の独自哲学として、大義名分と祭政一致を基礎とするものだったが、単なる他国との差は、実際には集団の善の根拠ではない。根本的には公徳度に応じた地位の序列が、善政の原因なのだ。
 今日の日本国憲法には名誉ある地位を占めたいと前文にある。これは唯の名利俗物根性というしかない劣悪な意志で、実際、全く名誉と無関係にもかかわらず善良かつ幸福にくらすいかなる国民にさえ、名利俗物集団の利己的一生は劣る。我々の究極目的は利他性であり、他国の善を助けると記述されるべきだ。

 天皇は世襲で、もし男系優越の慣行に従うとしても、血統が男系から仮に女系に移り変わったとしても(少なくとも8人10代の女帝のうち、男系女帝ではあるが元明帝から元正帝へと女性同士で代替わりがあった以上、Y染色体は代で継がれておらず万世一系論は史実ではない)、その公徳の質を問われていない。すなわち実権をもたせないことで、不公徳な天皇の出現を無視しようとした大義名分論(今日の象徴天皇制の理論的基礎)は、退位法下での上皇が憲法に定める皇室典範と矛盾するため違憲立法とみなされうる現時点でも、超法規的権威たる象徴天皇の地位が、国政の混乱をいざなう非公益と示すだけなのだ。
 斯くして天皇が世襲君主の建前を維持する為だけにでも、皇室が国政ときりはなされた民間の一宗教法人となり、その中で男系優越の世襲を維持するのが、公徳に欠けた象徴が国政全体に悪影響を与えるのを防ぎ、かつ、女系天皇か男系旧皇族の皇籍復帰以外の選択肢がなくなった際に備えた現実的解決である。行政と立法の分離を図り大統領制に移行した暁にも、信仰自由の範囲で、神道教祖の一族たる皇室は、他の宗教法人と等しく尊重されるだろう。そして天皇を世襲で地位につける擬制が、国政全体に与えてきた腐敗政治の悪疫は、武家政治が興りGHQによる国民主権が導入されて以来、はじめて解消するだろう。