「ネットでアーティストと認識されていないど素人が差別的ヘイト表現をこれもアートの表現自由だろと言っているが、それはアートとなんの関係もない」などと書き込まれておられたので、これについて少し考えた。
先ず英語artはラテン語arsからきているわけで、最広義では日本語の「わざ」と似ている語彙だ。
実は少し前に或る人が私に、アートは美術や芸術ではない、となんか高踏的な言い方でいった。いわばファインアートの訳語な美術とかアートの訳語の芸術が示す対象は、ガラパゴス化した田舎いゴミみたく。
これ自体、僕はその人もいったけど、明治政府の薩長方式を旧帝大だの当時創設の私大が「文明の配電盤」形式でうのみにして、大学教育内で脱亜入欧的に洗脳されてしまったからそう考えるにすぎず、要は徳川時代を否定したいがばっかりに西洋崇拝の極論に行ってしまっているからそういう偏りが出てくる。
もっというと日本の文化的現象はこれまで、和辻哲郎が『風土』などで論じたよう一旦、外来物を選択的に受け入れた上で、自らに合う形へ国風化し作り変える季節風的ミーム適応をとってきた。で、ここでいうartの訳語としての芸術なり、基礎分野についてのfine artにあたる美術もそれだろう。
だから正確にいうと、確かにドイツ語Kunstの示す物が、いわゆる英語・フランス語のartや、イタリア語arteとかと幾らか語彙の微差があるにせよ、本質的には似た領域にあてはまるのは確かで、日本語の芸術も直接の訳語なのだから、いわば輸入語彙の和製漢語としてはそのまま同じ、微差があるだけといえる。
で、元のラテン語だって「わざ」を示す語彙なのだから、結局、このたぬきの人(かもしれないし違うかもしれないし、いっちゃいけないかもしれませんから、仮にTとします)と、僕が話した高踏的なアート主義者とが指しているのは、狭義のハイアートのことだろうと想定される。それなら意味が通るから。
いいかえるとはじめに述べたTの言説は、「ロウブロウ(lowbrow。美術用語では無教養、低俗を示す語彙)なばかりかド素人の差別目的の下らんヴァンダリズム(蛮行)もどきが、おこがましくもハイアートぶってんじゃねえわ」ってことになる。アートと一般化すると、ヘイトも技だろと突っ込まれてしまう。
もう確立したばかりか美術市場にのみこまれたか自ら突入していった時点で、バンクシーの蛮行性や、ストリートアートが元々帯びている無教養性は(実際彼彼女の殆どの作品が表面的には漫画なので、美術史の造詣だの美学的理解が必須でなく素人でも一目でわかる)、スーパーフラット的に無視されている。にもかかわらず、村上隆が完全に理論化したけど、そもそもポップアートあたりから既に、ハイアートのロウアートとの境界は徐々に曖昧な侵犯状態になっていたし、要は制度としてしかハイアートが斯くある秩序なんて現にない。だからこそT説にも公に作家と認知されるかの制度論が付加されているわけだ。
T説や、僕が会話したハイアート別格論の人物(以下Hとする)の説は、現時点では保守的制度論なのである。
で、僕は確かにあいちトリエンナーレ2019騒ぎの中で、色んな人が津田氏と大村知事を戯画化したヘイト作品を連打してるのをみたし勿論蛮行だなと思ったが、制度性は技の質と関係ないとも思う。T説のツイートに或る人が少し出してたが、東京朝鮮中高級学校の生徒が排外的な差別ヘイトされまくった文章をはりつけた箱の中で、来場者と会話するというパフォーマンスを文化祭だかでやってたが、ヘイト自体も使い方によっては、ハイアートに昇華できる一実例ではある。
だからT説・H説のハイアート保守制度論は、無教養・中間芸術をフラットにとりこむ美学としての超平面理論以後では、実効性をもっていないのだ。これは僕としてはあんまり望ましいと思っていなくて、結局は中間芸術の領域が広がるだけかと予想しているので、理想主義絵画論などで離反しているのだが。
それと、上に少し出したが、英仏語のart、特にハイアートが普遍性を帯びて格好よく、茂木(健一郎)語録を敢えて引用すると「田舎臭え」代物である地域美術は劣位との考え方も、僕は全く取らない。特にチャールズ皇太子の水彩画に感激したと何度も書いてるが、田舎らしさは大変高い価値があると思う。僕は秋田に行った時、秋田弁を聴きたいなと思ってある市が運用してる宿泊施設の中をテクテク歩いていたら、当時の僕と同じかそれより少し若いくらいの女性が掃除かなんかしていた。で僕の前でだけ真似た標準語を使いだしたのだが、僕が歩いてくる前までは秋田弁を喋っていた。田舎らしさは希少価値だ。
で、都会性が洗練されているというのもただの中華思想の妄想で、現代美術でいえば普通に東京ヤンキー衆の某気合みたらわかるけども(決して否定的な意味だけでなく)、東京ローカル性を帯びる代物は普通に粗野だし、同じことは京都だろうがパリだろうがどこの都会性にもいえ、逆に田舎の洗練もある。田舎の洗練が例えばどういう物かというと、地元人だけがしっている食べ物とか店は、観光客向けのそれより遥かに質が高いのは大抵の人達が知っているであろうし、観光地化した場所より極めて美しく空いている穴場もあれば、地元人の間でしか通じない高文脈な会話や諧謔も沢山ある。ある方言の語感とか。
また秋田の例をだすと、美術に限っても、ある宿泊施設に行ったら普通にぼろっと舟越桂のある作品がそこらに置いてあって大変びびった。そして誰もそれに気づいていないし、周りにいっても「あっそ」って扱いだった。なぜなら岩手の近所の彫刻家だから、いくら素晴らしくても現地人には当たり前なのだ(ろう、きっと)。
そういうわけで、T・H説も超平面論よりかなり古めかしく、いわゆる保守制度としてのハイアート界(特にグリーンバーグ以後の米国流、又はYBAs以後のブリテン流)が現役というのも現に虚構だし、しかもしばしば中華思想だか都会崇拝だかと絡み威張り散らすアート通仕草自体が、僕は蛮行だと思っている。
根本的にアマチュアリズム(素人主義)も地域主義も入れ世界をみれば、ハイアート仕草そのものが一種の教養俗物らが上流気取りを偽装する仕業とわかるし、現にそのハイアート自体を20年も毎日ゴリゴリ探求してきた一人として、現実にその純粋美術を真剣にやってる側は完全に、ただの職人なのである。左官職人。橋を作る人(ゲルハルトの方のリヒターの引用)。コンクリートを均す人。あるいは雪村団扇や水戸の花火職人。汲み取り人。老農夫。もしくは毎朝だかしばしばだか、近所の路上を掃き掃除してる2軒隣のおばあさん。そんな人らとリアルハイアーティストは何も違わないとしか私にはいえない。