人類の商業界は私を片隅にも容れなかった。それで私は一円も儲からなかったし、また私自身も別に金儲けなんてしたくなかった。だが日本国は商売人でうずまっていて、芸術だの学問だのにしか関心がない私の様な人間はひたすら差別や迫害を受け、極貧におとされ、殺されかけている。とんでもない野蛮国。その芸術にしても、私の国の大勢は、私の好むものでは全然ない、訳のわからない下品なアニメとか漫画の絵を描いており、もっと恐ろしいことにその中でキャラクターに淫行させて何万もいいねをつけたり、大金を払って賞美している。或いは20億円も彼らに金を貢ぎ、私を無視し餓死させようというのだ。
それで私は日本国が世界一嫌いな国だ。何しろ何も気が合わないのだ。そんな国から出て行きたくとも金もないから脱出できないし、言語だって他国と違ってろくに通じない。簡単な英語は読み書きできるにしても、聴き取りや発音はうまくできないし、外国でも金儲けさせられるなら結局、人類界など地獄だ。
私が色々読んだ中で、最も共感できたのはゴータマ・シッダールタの言行録である『ダンマパダ』や『スッタニパータ』だった。その中でのち仏陀と尊称されるゴータマは、乞食で子供を生まず死ぬのが最善だといっている。よくしられている通り、彼は或る種の自然死を無欲の完成といい賛美した詩人だった。ゴータマにいわせれば欲自体が悪なので、それを自我の否定で抑えきった無欲こそ安らぎになるわけだが、性欲は理性でなんとかなるものの、食欲と睡眠欲は如何ともし難いので、乞食で済ませようというのだ。そして自殺までは勧めないものの、無一物での遍歴後、寿命で訪れる自然死が安らぎの完成になる。彼からすると現世にまた生まれてくるのは、インド思想でいう輪廻、つまりは生まれ変わりであり、自然死で完成する筈の修行の途中で性欲に負けた証拠にすぎない。ゴータマもラーフラという息子がいたのだがこの息子の生も、間接的にだが解脱と呼ばれる上記の無欲を目指す乞食遍歴を勧め、否定していた。
親鸞は、ゴータマの教えを幾らか頭で理解していても、性欲に負けて子供をふやしてしまう俗人が到底解脱などできないのをみていて、自分も彼らの一員になることで、仏教教理上、妻帯可能にしてしまった。要は欲の肯定。以後、日本の仏教界は世俗化したといえるが、本来は反出生主義なのである。それで、私は現世の中でやはり俗人達としかいえない様な、哲学になどなんの関心もないだろう人々の一生を眺めていて、平気な顔で金儲け自慢しつつ子供を生み育て威張っている様な連中をつぶさに観察したのだが、彼らが偉いといえる様な要素は余り感じなかったのが事実だ。寧ろ軽蔑したくなる位だった。
例えば身近でいってもきょうだいや親友が、発情期にほぼ獣類みたいに発狂状態で平気で理性のない振る舞いだの裏切り行為だのをしてるのに軽蔑の念を感じざるを得なかったし、もう少し離れたSNS上の他人だのも、配偶者や子がありながら不倫自慢の都民だか差別ばらまく京都人だかみて大いに失望した。全く知り合いではない赤の他人の次元でも、子供や配偶者がいる人達は物凄く威張っていて自分は社会の普通だくらいの驕り方をしているけど、その人達の若い頃からの振る舞いみてたら下品極まる唯の俗人なのである。いうまでもないことかもしれないが、事実として。性欲は何も偉くない。道徳と無関係だ。
それで、私はここ最近まで性欲なるものは獣類の持ち物だからろくなものでないとみなし無視していた。私は二十歳の頃、神の如き者、つまり全知全能全徳になるだけ漸近するのが、アリストテレスがいう通り正しい人生だろうと考え、その通り生きようと目標を立てた。そして性欲はそこに入っていなかった。一方で、フランスの美学者シャルル・ラロが性も食も芸術に入るのだと定義しているのを最近知った。この考え方によればなぜこの世に性風俗だの同人誌(昔でいう春画だろう)含むポルノの様な、獣類に近い世界が存在するのか説明可能だろう。結局、私はこの分野について無知のままになっていると悟り勉強しだした。
そして現時点までに分かったのは、この性や食の美化なるものは、確かに芸術性が介在する余地もあるが、かといって最大まで進歩しても、ゴータマのいう欲をなるだけ婉曲的に表現する、できれば複雑な媚態で否定するのが関の山だろうということである。簡単にいうと昇華だが、上品さとは欲の否定なのだ。本来、上中下品は仏教用語で、上品を悟った人としてそれ以下を中品、俗人を下品と定義したものとされる。この意味でもだが、ゴータマ風の欲の否定が究極の上品と定義されているし、結局、芸術が性や食について介在できるのは、欲の否定表現の形式的高度化にすぎない。まあそれが神格かもしれない。
つまりである。商人もだがこの人達は物欲なり金銭欲に物凄く接近して生きているわけだ。だからそれは下品なわけだけど、ゴータマ的に欲の否定を高度化すればするほど、無一文で乞食すら否定している求道僧、いまでいえばニート、無職、スネップ、孤立無援者の方が偉いと逆理が生じる。全く同じ現象は性、食、睡眠その他ありとあらゆる動物と共通の低次欲求にあてられていき、最後まで埋まらない高次欲求としての理性だけが残される。そしてその理性なる意識の状態は、欲を悉く否定した最も獣達から遠い状態なので、一応の言葉として人格と比べてより神格性に近いものとみなされるのだ。
で、私はこの神格なるものが人間界の全てより救いに近いのではないか? と二十歳頃考えていた。それから15年経過していえるのは、一理あったが半分は間違いの様な感じもする。不思議なことにというか、ミルも『自伝』でいっていたが、感情的な快楽がないと人生は機械の様に意味を喪失してしまう。
我々は所詮、肉体面では哺乳類の一進化版に他ならない。その脳が言葉を操りどれだけ理性的な振る舞いを覚えたとしても、この肉体は現世的な欲に縛りつけられている。いいかえれば、芸術、技はその種の欲をなるだけ上品に理性と繋ぐ役割をもっている。私は15歳くらいから芸術に関心をもったのだけど、それは最初直感的にだったけど結局、こういう意味をもっていた。すなわち理性と呼ばれる意識の状態に人がなんらかの意味をもたせるには、肉体が縛られている欲の世界とその理性的な状態を、できるだけ麗しいあり方で繋ぐ必要があった。もう少し具体的にいうと、いくら哲学的な対話が他の動物に比べ遠く、最も神々に近い活動で、理性を満たす点で最高の幸福だといっても、欲なるものが肉体から完全に放逐できない以上、そこで会食する時には少なくともより上質なものをマナーよく食べた方がましだろうし、社交上の機知も必要だろう。
私は昨日あたりまでずっと哲学と芸術のどちらが自分にふさわしい生業なのか迷っていた。今こうして書いてみると、本来、哲学が理性にとっての目的なのだから、芸術はそこに彩りを添える役割でしかない些末な分野だ。恐らく芸術に惹かれるのは感性鋭敏か感情が優れた人の特徴で、場の演出家なのである。
今日の日本社会は、全体として東京圏や関西圏、中京圏を発端として商人でうずまっている。彼らがなぜ商いを生業に択んだかだが、目先の利に弱いからだ。彼らも死ぬ。その時残るのは欲に負けていた証拠だけで、忙殺されていた間に何をしていたかなら、利益を追いかけとるにたりない生活をしていたのだ。彼らは他人に奉仕した引き換えに対価を得ていたと主張する。だがそれなら無償奉仕であるべきで、対価は利己性の残滓にすぎない。利によりて行えば怨み多しと孔子がいうよう、結果からすれば善意を台無しにするのだから要は利益追求の言い訳を返礼の省略とのたまわったデリダのよう、言い繕っているだけだ。
後世からみれば私が今書いていることは既に自明だろうが、現実にその圧倒多数の商人衆の中で理性を保ち、彼らの悪習に呑まれなかったのは私しかいなかった。確かに坂爪圭吾氏のよう或る種の反商業主義者は見かけたのだが、根本的に資本主義を否定する視座を持ち合わせた人は私しかみあたらなかった。
上品さとは欲の否定だ。そうなら資本主義経済下で最も上品なのは、売買から最も遠く離れた生き方だ。
数年前、或るSNS上で、私より数歳若い人が、拝金的な主張をし蓄財を生きがいといい周りに自慢しているのを私はみた。そして彼らの心魂を把握する為、資本主義経済の全体像を本格的に学びだした。昼夜を徹して学んだ結果(私はずっと勤勉ではあったがこの時の猛勉強は嘗てなくある日、失神しかけ、初めて過労死しかけた。勉強しすぎで死んだ者はいないと或る予備校講師がいっていたが、完全に嘘だ)、資本主義を称する経済界の把握は大分できる様になったが、結局そこは欲深い俗界にすぎない。
資本主義者らは、総じて欲を肯定する。この点で彼らは、日本人の場合は石田梅岩ら町人倫理の延長に自らを置いており、外国人なら背後に清教徒思想があったりイスラム思想があったりするが、総じて下品さを先ずなんとも感じない。つまり商人なるものは究極まで欲に接近し続ける、世俗の存在なのである。
もし私と似た様に、この商人世界に違和感を覚えるなら、無理に参加しようとするな。私は長時間をかけ(といっても2、3年ほどだが)あらゆる手立てを試したが、欲深い人達、下品をなんとも感じない人達が最も、この商業には適任なのである。つまり商業界に違和を感じるのは、彼らが上品な人だからだ。上品に生まれついている、もしくはそう育ったのは、現代社会の圧倒的多数派を占める商人達には永久に到達できない資質という意味で、貴いことなのだ。それをわざわざ堕落させ、下品に合わせようとするのは、すべての面で間違えている。もし無理に商売を試しているならすぐ足を洗った方がいい。
上品さの余り餓死させられたとしよう。極貧におとされ散々に侮辱された上に、汚名を着せられ、成金商人衆から善意を踏みにじられたとしよう。だがそれがなんだろうか。あなたはその場で、商人側に入りたいと思うだろうか。もし思うなら、当然ながら既に入っているだろうし上品な人間でもないだろう。
我々はただ自分らしく、利益追求を汚いこととして避けていればいい。これまで通り、金は汚いから触れたくないと考えていればいい。アメリカ人だろうが中国人だろうが東京人だろうが関西人だろうが愛知人だろうが、誰がやってきて成金自慢し、低次な欲の満足を自慢していても、我々の幸福とは関係ない。ミルが『功利主義』で満足した愚者より不満足なソクラテスがよい、と書いた訳は、この品性の一点で正しい。不義にして富且つ貴きは吾に於いて浮雲の如しと『論語』でいう孔子も、全く同じ点をいいあてている。我々は上品さにとどまるべきで、生活保護を受けられず餓死をもなんら恐れるべきではない。もし商売人地獄の中で、欲深い愚者なり豚なりに堕落しなければ生きていけない国があったら、その国は生き残るより早く死んだ方がずっとマシなのは、品性の残された誰の目にも明らかである。餓死以前に脱出できればいいだろうが、それすらできねば諦め、進んで餓死を甘受するべきだ。それが人の道だ。
日本国なる悪徳商人集団が、果たして生き残る価値のある仲間かといえば、私は全くそうとは思えない。計35年間、1億人以上の彼らを詳細に観察し、心魂の底まで覗き見て、確信を持ちそう断定できる。彼らは汚い。彼らは賤しい。彼らは暗愚で、学ぼうという意欲すらない。豚未満の生命体で欲深い罪人だ。彼らに反省の余地があるかといえば全く無いと思う。普段の行いをみてみればいい。匿名で悪業三昧、下衆の極み。皇室と称し浮浪者を貪る、成金が幼稚なアニメに大金を貢ぐ、進んで身売りする外道が10万人以上もたかっている首都。どこをどうみたら救いがあるというのだろう。衰退、絶滅も自然の流れだ。
では自殺がどうかだが、ゴータマもこれを特に勧めていなかったし、私も特に勧めない。なぜ他人を貪らないと餓死を強要されるほど人品に於いて拷問級の国なのに自殺が勧められないかだが、上品な人間が周りに害悪をまきちらすのは全く望ましくないからだ。死に至るまで無償で人助けし自然死がいい。
究極のところ、過去の人類を振り返ればわかるが、俗人として何百年生きているより聖人として数十年生きていた方が、遥かに人として優れている。この聖性とは何かなら、動物に近い低次欲求を程あれ否定し、高次欲求の中でも最高の部類にある理性をできるだけ立派なものにする哲学的思考の働きである。孔子は『論語』で、考えるより学ぶに如かずと言い残しているが、同時に、学びと考えは相補的だ(学びて思わざればくらい、思いて学ばざれば危うい)ともいっている。つまりは哲学は全学問、全知識、全科学(芸術学や芸術批評をも)を含んでいるが、全部知った上でよく考える生業だといっているのだ。
我々人類として産み落とされたものが、少なくとも全生涯で行える全活動のうち、最も優れているのは、できるだけ長い時間、しかもできるだけ大きな労力を、この哲学に捧げる仕事と思う。この仕事に比べれば他のどんな生業も僅少だ。私は芸術に興味をもっていたが、得意なことと為すべき仕事は違う。
資本主義は欲深く、品性の低い者が最適化できる思想なので、そこで億万長者になっている者は例外なく、最も下品な欲求に詳しい者だろう。これを誉れと称えている人間は、根本的に聖俗をとり違えている。そうであれば資本主義市場は邪教徒の集まりにすぎず、貪婪の極みは人を不幸にしていくだろう。欲望は無限であり、蜃気楼のよう追いかけても別の欲望が現れ、永遠に満たしきれないのだからラットレースを抜け出せない。ゴータマがはじめに見抜いていた通り、唯一の対処は無欲にとどまることだ。最低でも少欲知足、つまり質素なり清貧なりが有徳な生存状態であり、資本主義の欲望開発は悪徳なのだ。
この時代は過ぎ去り、無限の欲望開発をめざし却って際限なき搾取による格差社会と金権政治に陥って亡んだ米中より遥かに、少欲な人々の集まった北欧の方が優れて幸福な、人助けを徳と思う居心地のよい社会を維持し得た世界史が誰の目にも実証されると、日本も迷走していたとどんな愚者でも悟るだろう。