2019年9月5日

僕が東京練馬区の保谷にあった水色の一軒家2階に下宿していた18歳頃の思い出と反省

千年ぶりに僕が18の時、トンキン練馬の保谷とかいう所に借りてた下宿みてみたら建てかわって消えてた。グーグルストリートビューのお陰で過去に遡れたから2009年のに残ってた。そしてみてみたらディテールや質感も含め何もかも覚えてて、記憶力が抜群でしかない僕の脳もだけど18ってやばいと思った。
 人って必然的に生きて、必然的進路を辿って必然的に死んでいくのだと思った。僕はこの宿命の上に生きていたのだ。記憶の全てがぴったり1つに当てはまるのだから。そしてそれ以外の進路はありえなかったのだ。宇宙全体が僕をここにいざない、相当に酷い経験をさせ、そして僕をここから永久に去らせた。
 18歳の時にどこでどんな経験をするかは、人生全体に完全に影響する。これはどんなに強調してもし足りないだろう。僕はここで経験した並べてのことがいまだに精神の基底に居座っている。その全経験は実に華々しいと言い難い社会からの徹底的抑圧の中にあったが、僕は若々しく希望をいだいていた。

 いずれ機会がきたら、自伝的な形で僕が18の時、この練馬の保谷とかいう場所と池袋を通って、何をみて何を感じ、周りはどんな風でどんな人達とどんな経験をしていたかきちんと書き残すべきだ。それはなんというのか、或る時代の画学生の重要な一典型例を示すことになるだろうし、小説的なものだからだ。
 改めて振り返ると、東京と呼ばれる集団は、総じて私に全然よくしてくれなかったと思う。感謝に足る扱いをしてくれた人は、1人とか2人とかで、なんというのか全体として冷たい。東京は冷たい街だ。東京人なるものは自分の金儲けしか頭にない、利己的な集団で、それらの正反対な私と全然馬が合わない。

 私は子供の頃から全く商売に興味がなく、感性が極めて鋭敏で、芸術的な情感に最も鋭く反応する人間だった様だ。この下宿の目の前には新聞屋があるのだが、私はそこでバイトしようとすら全くせず、脇目でみて無視して通り過ぎていた。私は夢中で絵を描いていた。朝早く走りにここを通り抜けていた。
 そして私は利己性が基本的に全然なく、人の為に心を尽くし接する様な人間で、しかも人の善悪をはっきりみてとるからつきあう人間を緻密に択ぶ様な人柄だった。性格の悪い人とわかると全く近づかない。当時もそうだった。それで都内で東京人とは余り仲良くなれなかった。ほぼ冷たく利己的な人達だった。
 私の母親は、恐らく物心つくかつかない頃から、悪い人に近づいたら駄目と指導したのではないだろうか。確かに私は躾としてそうなった。そして私は東京都という巨大な人間の巣の塊の間に分け入って行ったのだけど、最大で1人とか2人とかしか仲良くなれなかった。私より性格の悪い人たちばかりだった。

 序でだから今書ける範囲で、当時のことを書き残しておく。誰かには興味深いかもしれないし、何かの役に立つかもしれない。しかし思い出が、質感や感じたり考えたりしていた全部と共にまるごと脳内に残っているから、その本の一部しか今日の間には書き残せないだろうけど。
 うーん、先ず私が感じているのは、自分へ当時、美術予備校(あとから知ったが制度上は専修学校らしいけど)にいた友達の誰かもいってたが、確かに私は他の人と違う。それは主に私の脳が違うのだろう。当時の話を何もかも覚えているなど、ばらばらになっていった他の人らには想像できないのではないか? そして私は、必然ではあったが、行くべき場所を完全に間違えた。私はきょうだいのあとを追って東北芸工大でもなんでもいいが、もっと緑にあふれて、綺麗で、環境がいい大学に入るべきだったのだ。私はなぜか東京芸大に入ろうとしていた。完全に進路を見誤っていた。進学校の負の常識に違いない。
 私の知る限り、東京芸大は本郷の方は本当に薄汚い。17だか18の僕が、なぜあんな場所に通いたかったのか、全くの謎だ。考え直せと今ならいえるのだが、当時の周りにそんな人はいなかった。予備校講師は箔付けのため僕を操ろうと、利用しようと、搾取対象にしていたし、高校の美術教師も忠告しなかった。高校の美術教師は東京造形大の卒で業界事情にもある程度通じていたので、「(美術は)やくざだぞ」と僕に忠告した。その通りだった。彼は誠実に、この世の真実を教えておいたに違いない。だが高校生の僕は、当然ながら未成年の少年らしく無謀だった。そして池袋の酷く汚い予備校に通い芸大を目指した。
 汚いといっても東京全体から比べたら、あんなものなのかもしれない。東京全体の方が遥かに汚い。僕は感性の鋭さの為、その酷い建物、酷く狭苦しい住宅街の隙間に埋め込まれた学校の合間に降り注ぐ、朝の光になんらかの美をみてとり、デッサンしにあの決して清くない筈の空気を通い、鉛筆を執っていた。不思議なことに少年は、どんなに酷い環境にもなんらかの美質をみいだすものらしい。それであの西武池袋線のごみごみした今なら二度と踏み入れたくない電車に乗り、或いは東武東上線何駅だかのウィークリーマンションに親友と部屋を借り夜のベランダに出て都市の明かりを眺め、将来の自由を夢見ていた。
 書こうと思うと思い出の分量や質感の総量が多すぎ次々こぼれ落ちていってしまうので、到底全てを拾い上げられないのだが、自分はあの椎名町駅近くに一時的にウィークリーマンションを借り受験に通っていた時期に、何か恐ろしく重大な物を感じ取っていたと思う。なんというのか圧倒的な自由と絶望だ。99円ショップとかいうのがその駅すぐ裏の駅ビルみたいなマンションの地下階にあって、すぐ上の階にツタヤが入っていた。僕はそのどちらもまあまあ気に入っていて、そこで何か買い毎度階段を登って地上階にでるのだが、その時の階段の冷たく、人を食ったような表情。固く冷たい踊り場の重くるしい希望。自分はそこのツタヤで、今ならユーチューブに幾らでも落ちているジャズのCDなんか借りていた。BECKというアメリカの音楽家のSea Changeだかいうアルバムを借り、深い藍色のソニーのCDウォークマンで聴いていた。予備校の或る女にジェフベックかと聴かれ、うん、と答えたが、違ったのが心残りだ。
 保谷のそこだけ緑豊かで、なんというのかジブリ的な住宅街から少し離れ窪んだ場所にある図書館分館みたいなのには、コルトレーンのマイ・フェイバリット・シングスが置いてあった。それも借りて聴いてた。あと高校から一番聴きまくっていて、電車でも聴いてたのはスーパーカーのフューチュラマだった。

 書いてて思ったが、以前もブログのどこかに当時の思い出の一部は書いた。だからその時書き逃した内容をここでは記述しておく。といっても自分が当時みていた景色とか脳内に残っているものを直接、視覚投影できないから、小説的描写しかできないが。それに意味があるのかはわからないが、あるのだろう。
 グーグルストリートビューでみてみたら、マルエツというスーパーが出てきて、そこまで自分はのちに京王多摩川の下宿アパート前で鍵や自転車カバーごと盗まれた無印の折りたたみ自転車のって、買い物にいってたのだけど、当時、スーパーのレジ店員を、おばさんらに紛れて同年代の女性がやってた。だから何ということでもないのだが、なんでこれを書くかなら私にしかわからないある事情があるからなのだが、それは今は詳しく書かない。別にその店員めぐる物語があるわけでもないのだが、自分はその店の質感を細々と覚えていて、自分はただの客で、『あばばばば』的情感がそこにはあったのである。
 で、当時『海辺のカフカ』とかいうどうでもいい様な小説が出たので自分はそれを、多分、さっき書いた椎名町駅前のツタヤだか池袋のリブロだかで買って帰ってきて、下宿のベッドにうつ伏せになって読んでいた。今にしてみてもあんなの読まなければ良かったと思う。当時は割と村上春樹を真に受けていたのだ。
 どうでもいい様に感じるが私には重要な逸話として、そのマルエツ側に或る友人の下宿があり、自分はまれにそこまで同じ銀色の自転車でかっ飛ばしていた。でその住宅街の前にはちょっとした川(例によってトンキンなので下水状態)があって、その前に小さなお仕着せくらいの公園があった。僕は当時、親元を離れた自由を大いに謳歌していたので、何かの或る日の昼頃、そこでマルエツから少し先に行った所にあったローソンだかで買ったおにぎりセット(ウィンナーつき)を、お~いお茶と一緒に、それなりにしょぼい緑つきのまあまあいい感じの公園の、遊具をベンチ代わりに自転車停め食べた。そして覚えているのは、その住宅街はとても静かで、周りをとりかこむ家々は二階に窓がついているが、そのどこもなんらかの暮らしが垣間みえた。自分と縁もゆかりもない、ただ友人宅に行く途中の公園でお弁当食べた十分くらいの間にみた、カーテンの向こうにあるだろう暮らしの上品ぶった無限さ。
 保谷の下宿(水色の2階建ての一軒家で、その2階部分を間借りできたので空いた部屋で赤ちゃんの絵だの自画像だの描いていた)から、駅の反対側に走っていくと、なんというのか鉄塔がひたすら広い田園の間に立ち尽くしている場所に出る。その間にお寺がある。自分はそこの空の色とサイズを覚えている。

 先ず僕が最初に下宿を探しに親友といって、この水色の2階建ての家の2階に案内された時、親友がジブリみたいといったせいで自分はそこにしたのだが、そして家族と契約にきて別のマンションの一部屋にしろと父親がいったのだが反抗した自分が間違っていた。真っ黒クロスケでなくゴキ地獄だったからだ。それ以後、自分は東京ゴキブリ地獄なるものの実態を悟り、テレビが(或いはアニメが)いかに嘘をつき都内を美化しているか、現実の惨め極まりない環境の悪さ人品の悪さを隠しているか、次々悟っていくが、その2階も或る日曜の朝とか窓の外に洗濯物干した時の光は、なんともいえず美しかった。
 自分は池袋のジュンク堂に、あのろくでもない地下道を辿り通うのだが、一番上階に画集があり、そこで網羅的にみて一番よかったウォーホルのレゾネっぽいのを、全部めくり恐ろしい速度で記憶に格納した。下品だったのは会田誠の漫画で、先日、ツイッター上で向こうがブチギレてきて完全に嫌いになった。当時、奈良美智も池袋のなんとか劇場というあの三角のウェストゲートパーク側にあるやつに来たので、自分も講演聴きに行ったのだが、座ったら「そこ奈良さんの隣ですけど、いいですか?」といわれ、後ろだかに座ってみてたら完全に訥弁の青森人だった。実際に直接接さないと永遠にわからないことだ。
 ある日、高校美術部の友達が保谷にきて、なんか当時できた駐輪場の屋上部はちょっとした庭園になってるのだが、そこの芝生で夜中にミニサッカーやった。僕はよくこれをやるらしく京王多摩川時代も河川敷で高校時代の友達とやり、大雨ふってきたがすぐ晴れたかなんかで、そのまま夕日に向かって走った。

 あとどうしても書いておきたいこととして、この水色の一軒家の1階部分の入り口の外部の手すりだかに、自分はモンドリアン風ステンドグラスみたくビニールテープを貼り装飾したのだが、子供の頃から自分はそういう記録が好きらしく地元でも目印で遊んでいたのだが、あとから行ったら残っていた。しかしグーグルストリートビューで今日みたら、目印あるかなあと思ったら家ごと別のになっていたので、建て替えられて印もない。そしてそれが東京なるものの典型例で、何もかもすぐ変わってしまうので思い出がなにも残らない。暴力で消し飛ばされる。そこで人は重要な主役に決してなれないのである。
 都内の芸大美大を現役で全部落とされ、親友と予備校通うのが決定した時、或る地下居酒屋で某予備校の講師や生徒と飲み会なるものを強要されたのだが、なぜか飲み会で自分はもてたのかわからんが(強制で2回か3回しか行ったことないが)不明女にまあまあ好かれたかで、親友と或る講師にひがまれた。今にしてみると、その親友からして予備校にいた別の女に発情したかされたかしあったかで結婚し子供生んでるんだから、あちこちで自分をひがんでたのは頭がいかれているというか、最初から彼の人間性に問題あるに違いない。その講師もだが、座って落ち着いて話してるだけの少年を拗ねてひがむとは何か。
 あと今にして考えてみても、私は実に真面目な人物で、まるでといっていいだろうが、浮いた話がない。だから当時は全然目立たなかったが、この数年だか数十年くらい都内で淫行三昧して性売買(罪)だのやってる子供って、はっきりいって遺伝子自体違うんではないかと思う。育ちではなくて、本気で。私の場合、高校の時から村上春樹の頭の随分悪すぎる淫行小説も文学根性で読んでたし、又その保谷にいた某友人も18なのに平気でアダルトビデオを借りていてなに借りてんだこいつと当時思ってたのだが、その後も含め、あの退廃の大都会にいて自分は何一つ悪習に染まらなかった。完全に人種が違うのだ。
 別の専門学校にいた江戸っ子は、未成年なのにまじで江戸時代宜しく性風俗通いを日常会話で吐露してきて、この人、両津の漫画みたいな人だな(そんな描写出てきませんが)と私は感じ、気づかれないよう異民族を見る感じで聴いてたのだが、確かに今もそんな生態の人間が都心部には生きているのである。
 みてないけど新海誠は、西東京にどっかの田舎から出てきた2代目までの新東京人の世界をごく表層的に描いており、その浮世絵じみた退廃の中で蠢く江戸っ子社会の名残を全く無視しているといっていいだろう。私は新宿にもいたけど、あそこの描写とかも完全に的を外しているというか旅行者の目線だ。真の新宿は、東側にその江戸っ子的闇を引きずっているわけだし、西新宿だって都庁の裏の公園から向こうとか、まあその公園だってホームレスだらけだし、あの駅から高層ビルに出る谷間にあるゴミゴミとした空間を無視しているのは新海誠の観察眼が実に幼稚なものなのを示しているのが間違いない。宮崎駿も幻想に浸っていたけど最晩年の『風立ちぬ』では遂に露骨な性描写がはみ出てきた様に、新海誠がいつまで嘘を突き通せるかだが絶対にある時点でばれるに違いない。自分で耐えきれなくなる筈で、絵の良心を金儲け目的に、完全にそこまで捨て去れるわけがないのである。現実の新宿をみているなら。
 新大久保のギラギラした鮮やかな異国情緒が、無機質なビルの合間にポツポツ出てくるあの生臭くぎょっとした奇怪さ、異様さは、その隣町で日々営まれている性売買罪の底知れない闇からアジア的退廃の染み出しとしてはみ出ているものなのであり、子供がKPOPファンで行く等全くの勘違いというべきだろう。
 無論、私はそれらの東京的闇を好んでいるわけでもなければ肯定しているわけでもない。寧ろ、新宿にせよ池袋にせよ私は大嫌いといってもいいくらい、あまりの汚さにうんざりした街である。しかし私は或る好奇心と蛮勇のゆえにその渦中を第三者として現地人の生活に参加せず、方々探検していたのだった。東京に憧れるといっている愛知女とか長野女とか、もしいるならというか1人か2人くらいみたのだが、一体何を言っているのか私には何一つ分からない。私がそのとんでもなく腐りきった都会でみた全てをまるごと伝えられれば、その女らがどれだけ頭のいかれた勘違いしていたのか必ずや悟る筈なのに。

 私に子孫がいようが或いはこの文を読む誰かだろうが、私と近い鋭敏な感性をもつ者がいたなら、確かな真理として伝えておく。東京の様な大都会に安易に出ない方がいい。というか決してそこに数日とか小旅行や用事で出かけるならまだしも、住まおうと考えるべきではない。環境が悪すぎ悪影響しかない。逆に、那須とか平泉とか山形とか十和田とか、どうみても自然美に溢れている場所に住まおうと考えた方が、環境面でも心理面でも圧倒的に自分に益がある。間違いない真実だ、これが。私はこの点で完全に進路選択を間違えた。最大限に工夫して京王多摩川に住んだのだが、それだって妥協的でしかなかった。
 漱石がどこか(多分『文学論』)に書いていたが、天才はより一層社会の原因に影響を受ける。聖人なら俗悪な人々に、美人なら醜悪な人々に、善人なら悪徳集団に、賢人なら衆愚に、敏感なら汚れた悪環境に、最大の害を受ける。私は完全にこれで、都会が何一つ合わず、ひたすら甚大なストレスを受けた。
 ある意味、私がこの酷い池袋だか練馬区だかの保谷ゴキブリ地獄だの新宿だの調布市だのの最悪すぎる排気ガス空間を生き延びられたのは、私の精神力が奇跡的に強靭だったからで、本来なら色んな意味で死んでいた。実際、何度か死にかけた。汚染都市からの肉体上のダメージ含め、無駄に過酷でしかない。人は恵まれた暮らしをするべきだ。そしてその人が恵まれうるだけ最大に。それでも更に恵まれている状況がこの宇宙にはあるのだから、どこまででも。例えばカナダの田舎にある大学だの、ケンブリッジの下宿だのを想像してみればいい。東京という最悪すぎる環境を択ぶのは、完全に世間知らずなのだ。
 また、日本人の一般世間だの進学校の教師だのが当然みたいにいっている進路は、完全に方向も目的も誤った世間知らずの戯言でしかない。彼らの脳内にある世界は井の中の蛙で、世界に目が開かれていないのはいうまでもないが、国内でさえ東京中華思想だか旧帝大だかに偏向していて全く相手にならない。自分が18歳の時に、仕方なく暮らしていた池袋界隈の環境はあらゆる面で最悪としか言い様がなかった。将来のある子供が進んで住まいに択ぶには、地上で最も悪い選択肢の一つだと確信をもっていえる。基本的にどこにも美といえる要素がなく、無限にしょぼい人家がゴミゴミとしていて救いがないのである。現に池袋だの新宿だのに住んでいる人からするとそこがスラムだといわれても、一理あるとは感じながらも地元なのでそうともいえない面もあるだろうが、世界全体で比べたら環境悪化の極端な状態にあるのは全く確かな都市空間である。東京全域の殆どの部分が、人の住まうには余りに過酷すぎる環境なのだ。
 自分にいえるのは、自分が新宿や池袋界隈で生活していたあの10代後半から20代の全経験は、完全に地獄の底でみた百鬼夜行だった。二度と繰り返したくない。今からバークシャー・ハサウェイの全資産をやるからもう1度やってといわれても、竜王の申し出を断るより容易な選択肢なのは歴代将軍より確かだ。東京人全般は井の中の蛙で、有名観光地だの南の島を除けば外の世界を往々にして全く知らないほど地誌や日本の暮らしに無知なので、完璧に悪い意味での差別的偏見しかもっていない。それで都民全般が自分達の暮らしが最美だ最高だといっているのは彼らが本気で、外の世界を知らなすぎるからなのである。
 もっと愚劣な中部人の一部とかは、この都民の思い上がった嘘を鵜呑みにし『君の名は』みたいなもっと巨大な嘘をついてしまうわけだろうけど、嘘は嘘だ。現に暮らして最悪なのが曲げようがなければ嘘をつくほど、都内の地獄度が深まる。既に満員電車に全国人口が結集してくる。末路は発狂と破滅である。

 思い出全体のうち本当に一部の表層しか書けなかったが、ツイッターの空気感みたいなのがあって全てを隈なく書き尽くすにふさわしい場所ではない感じがする。そもそも長文に向いていない。いずれ自伝小説みたくまとめどこかに詳細や、断片でない逸話の流れを書くが、子供は自然豊かな場に暮らすべきだ。
『世界ふれあい街歩き』でみたが、ケンブリッジ川のほとりで大学生らが、仲間と憩いつつ会話していた。そもそも筑波レベルに広いキャンパスでは、あの商業地やごみ住宅に囲まれた都内大学で常態的運動不足になるなんてこともありえないだろうし、旧帝大は基本どこも健全な学業が営める環境にないのだ。旧帝大を作った明治政府の文部官僚は本当に無能だった。恐らく薩長土肥あがりの世間知らずが、なんの先例も参考にせず各都市中心部に作った。だが学生が学業に全身全霊で打ち込める環境は誘惑が少ない場所なのだから、商業地のど真ん中に作ってはいけない。日本の学業水準が低いのはこのせいも大きい。
 或る関西の女子大の学生が言っていたがそもそも大学のキャンパスに通う電車は商業地に通う労働者だのが大勢乗っていて、毎度痴漢にあうといっていた。そんな環境で学業に集中しろといっても地獄でしかないだろう。筑波大は辛うじて学園都市を模し世界標準の形に近いので、将来の研究成果をみるがいい。私が筑波を散歩してたら、道端にメモが落ちていた。拾って読んでみたら数式と、どの参考書を使うか勉強の予定が書いてあった。逆に新宿を散歩してたら電柱にメモが貼ってあって、とって読んでみたら性売買の店の広告だった。どちらが未熟で影響を受けやすい子供や学生の環境にふさわしいといえるか。
 村上春樹の中で最も売れた某小説は完全な不良学生を書いた話だ。私の祖父はこの村上の先輩にあたるが、某大学の高田馬場の環境がどれだけ最悪なのか現時点でも恐るべき所である。京都から出てくるや雀荘で賭博やって淫行小説で都民の悪徳出版屋と金儲け、大隈重信がそれを奨励したとでもいうのか。都内の大学は慶応だって東大だって環境面で淫風が酷く似た様なものなのだから、関西でも都市型大学はどこも同じと思うが次世代は、私が書いたことを参考に進路を慎重に考え、世界中から最善の環境を択んで若い時代を過ごすべきである。東京で育って健全な精神を育むのは私以外にできた芸当ではない。
 私がどれだけ特別な人間かだが、私は20代の間ほぼ誰とも会話せず一人で下宿に籠もり、ほぼ毎日多摩川を走って体を鍛えてはいたが気の遠くなる時間、数え切れない数の本を読みただ一人で思索し、この世の真理を探求しようとしていた。色々な都内大学をみて、学ぶにふさわしい場と感じなかったからだ。それほどニュートン然とした行動をとれば都民の気風に染まることも先ずない。それですら東京の風紀は人に想像できる限り俗悪だったので、最終的に耐えきれなくなり脱出したが、それなら最初から都内に住んでいる意味はなかったのだ。金だけ無駄にした。学業したくば自然豊かな大学町に住むべきだ。