悪事を犯した人達は、たとえ小さな悪業でも、被害者から怨まれる。そして彼らは少しずつその悪業を溜め、やがて大きな果を得る。
小悪の結果がこないと考えている者は、単に業が消え去らないのを知らないのだ。被害者についた傷は癒えても、その不正の証拠は永遠に残されるのだから。
大きな破滅の前に、必ず小悪を徐々に積み重ねた印が見つかる。彼らは最期になだれになって落ちてきた自らの悪業に潰されて死ぬのだ。人は彼らの脳や外部記憶装置に歴史を刻む能力があるからには、わずかな害悪にも、わずかな福徳にも共に然るべき応報をもたらさずにはおけない。それを社会と呼ぶのだ。
積善を勧めていた過去の聖者らは、確かに最も賢明な生き方を説いていたものだ。それというのも全徳に学び続けている限り、我々は人々が正邪に照らしどの程度歪んでいるか即座に分かる様になるからだ。交友相手を択ばない人々の第一の特徴は、この点で積善の習慣がないのである。
この世で得られる幸のうち、最も高いそれが他者から与えられるものであれば、少なくとも人は利他性の質に応じた結果しか得ないだろう。人格的に劣る人と関わるのは、どの面からみても自らに災いの因になる。そして人格的に劣る人と関わっている人々も、やはり日々害をこうむり堕落せずにはおかない。