2019年8月2日

あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」について

確かに天皇家がこれまで人類史の中でやってきた大量殺人の罪、あるいは現時点での国民奴隷化の罪はぬぐえないにしても、某医院長がいう一人の人間としての平成天皇への仁も一理ある。
 行政展の一部に展示された、原爆投下を見送った自分の父の写真が焼かれる映像をみて、明仁氏はどう思うのだろう?

 あいちトリエンナーレ2019、表現の不自由展の批評を色々みた感じ、最も鋭いと思ったのは「昭和天皇への冒涜は、名誉毀損にあたるのではないか」というものだった。
 彼は交渉で戦争責任を回避したが、米国民の多数派世論をマッカーサーが遂行してたら死刑だったのを省みると、政教両面からグレーだ。
 顔を破壊・消去した自画像は佐伯祐三『立てる自画像』が有名だが、表現の不自由展での嶋田美子『焼かれるべき絵』はこの表現形式を踏襲しており、昭和天皇の人格否定を行っていると同時に、聖像破壊の意味があると捉えられる。当然、宗教批判を含んでいるので神道信者にとっては冒涜表現だ。この絵は王権神授説の否定と、聖像破壊を同時に含んでいる表現なので、政治的保守主義者と神道信者を同時に挑発する。それで別の場所では撤去されたのだろう。
 名古屋市長河村氏は南京事件だけでなく慰安婦問題をも捏造視しているらしく、こちらの絵への問題視発言をまだしていないと思うが、慰安婦像*3はもはや美術史の中では政治問題を引き起こす渦中の表現パターンとしてかなり一般化したのに比べ、御影破壊はまだ文脈化されていない。
 津田氏の会見によると「表現の自由の現在的状況」を問うコンセプト自体を愛知県行政は認めているが、内容に賛意を示しているのではない。彼は展示内容による干渉がしくみ化されるのは憲法21条の検閲にあたる、という理屈をとっている。つまりこの憲法上の「表現の自由」を逆手にとって、行政展で菊タブーを侵す、というかなりの離れ業を津田氏は監督としてやったといえる。当然、右翼から脅迫を受けることを予想していたらしく、そうなった場合、表現の不自由展そのものが政教批判として歴史化されるというパターンも想定していた筈だ。
 私的な表現自由の範囲と公的なそれの間に、異なる性質がある、と批判者の言説から明らかになってきたのも重要な点だ。「(私の払った)税金で、自分の信仰に反する展示をするな」といった非難がみられるからだ。神道教祖への冒涜表現には信仰自由への侵害がある。その点に行政展上の制限がありうる。
 まあ社会学用語としての「ジェンダー」を単なる男女比、性別の意味で使って無知な素人というか一般衆愚の誤読をさそい(本来ならどんな男らしさ、女らしさ、その他の性的少数者らしさも等しく扱いますという意味になる)、実は不公平な男女比1:1にするというコンセプトも含め、炎上商法なのは事実。一般人をまきこんで意図的に学術用語の誤読を誘ったり、政教・表現自由を左派文脈で挑発的に用いて戦略的にネット右翼をいきり立たせ、全体として負の集客にする、という古いネット民がやりがちな炎上商法を美術界にもちこんだのが、津田氏の今回の企画だろう。
 ジェンダー平等の二重基準についての小炎上の時点で「真摯に表現している芸術関係者を通らない理屈で馬鹿にしていると、いつか仇となる」と津田氏に指摘している人がいたが、彼はそれをブロック等の異論排除で無視し、今度は聖像破壊や国旗損壊*4、歴史問題による右派挑発などで本格的に大炎上した。

 茂木健一郎氏は印象派の落選展、ナチスの退廃芸術展と文脈的に重ねて表現の不自由展を意味づけようとしていたが、中身の本質がだいぶ違うというか、今度の場合は包括的なあいちトリエンナーレ2019全体の企画的本質が、理論的整合性がない炎上商法に過ぎないのに加え、複数の反社会的表現を含んでいる。
 特に行政権力が企画展として、日本国の象徴を名誉毀損する様に受け取られうる表現とか、外国国旗を汚損していると受け取られかねない刑法違反かもしれない表現、そして安倍政権そのものがくりかえし撤去要請してきて歴史問題になっている慰安婦像を、愛知県の美術館に展示している点が今までと違う。国旗汚損に類した表現や、慰安婦をめぐる歴史問題は後に回すとして、聖像破壊で天皇を冒涜しつつ政教一致の国体を汚辱する反国家的表現をも、行政が検閲なしに税金で展示するべきだ、という一種の極左アートテロを含むのが表現の不自由展。今や共産党すら天皇制に賛成なので菊タブーに踏み込んでいる。
 もし今後、極右が表現の不自由展へ脅迫や威力妨害等を行ったり、愛知県・名古屋市、又は日本政府のいずれかが施設使用許可をとりけしたり、或いは極右団体等が訴訟して御影破壊の展示拒否が検閲にあたるかを裁判で争うかすれば、美術史の文脈というより主に政治史の文脈で、今回の展覧会は扱われる。いわゆる日本会議・神道政治連盟の自民党員は、嶋田美子『焼かれるべき絵』が天皇への冒涜にあたると判断される以上、なんらかの仕方で慰安婦像をめぐってフィリピン政府にやったのと同じ表現弾圧に出るだろう。
 ただそれを含め、美術史の目からみて正直いってハイアートの文脈を顧慮してある作品は、自分がホームページで確認した限り存在していない様にみえるので、企画倒れというか、やはり政治色の強い炎上商法におわっているといわざるをえないのでは? この点で落選展と比べるのは明らかに間違っている。要するに一般人がツイッターで「こんなの芸術じゃない」といってるのは今回ある意味フツウに正しいというか、芸術面はなおざりにされているただの政治的プロパガンダに過ぎない、という批判には一理ある。例えば強烈な政治批判でも『ゲルニカ』のハイアート性は別個にきちんとあるわけだ。
 村上隆がタイムボカンのキノコ雲を描く時も、いわゆるポップアートのスーパーフラット解釈みたいな日本アニメへの独自流用が含まれていて、ハイアートの文脈にのっけてある。嶋田美子『焼かれるべき絵』にせよ慰安婦像にせよ、文脈主義は希薄だ。基本的には政治ネタを扱っている平凡な表現手法である。キム・ソギョン、キム・ウンソン『平和の少女像』は空の椅子が1個ついてるから参加型パブリックアートやミニマリズムと無理やり関連づけられるけど、作者的には文脈主義より純粋に政治批判の意図が先立っているだろう。御影の方も辛うじて佐迫や、ベーコンの作風と関連づけられるが、大体はそうだ。
 この意味でナチス退廃芸術展は、画家としては挫折したヒトラーが敢えて前衛美術を集め、保守的趣味からけなしていたわけだから、表現の不自由展の非芸術とは意味も文脈も違っている。「芸術を政治のだしに使うなよ」と批判してる人がいた。つまりそういうことで、確かにハイアートを無視しているのだ。

 僕的には、児童ポルノまがいの同人マンガには1万近くいいねしたり性奴隷ゲームには腐るほど金を貢ぐ日本人大衆が、同じ面で御影破壊に大発狂するのは完全に彼らが一切、国際感覚をもちあわせていないガラパゴスな狂人集団と示すに過ぎないと思う。どれだけ無意識に水戸学尊王論を狂信してんだよと。
 義公があいトリモブというか一般大衆みたら、彼の尊王思想がほぼ大衆化されきってるからその面では満足したろうが、別のところで彼らは眞子内親王・小室圭氏、或いは秋篠宮一家へ人格否定しまくってるので二重基準である。単に暑くていらついてるのに安心して叩ける炎上案件がきたから群れてんだろう。