2019年7月3日

孔子の啓発と仏陀の方便は同じ対機説法を指す

自分より遙かに愚かで卑しい人を真摯に扱った経験がある人は、彼らが怠惰な上に暗愚で、知ったかぶり、常に他人を陥れることや利己心だけで動く救い様がない連中と多少あれ分かっている筈だ。教育が全人類をよりよい状態にする、という単純で手合いない信仰は、向学心がない人達に先ずなんの効果も持っていない。
 優れた教師が知的好奇心を含む崇高な道徳へ畏敬の念を啓発できなければ、益々教育自体の無意味さは強調される。
 教育にこの様な限界があるのが事実なら、それを扱う人は寧ろ強制の対極にある秘術(決して知識を隠せといっているのではなく、物分りの悪い生徒に進んで学の蘊奥を教えようとする啓蒙は意味がないということ)として、生徒の向学心に応じて知恵を分け与えるのがよりふさわしい態度といえるのではないか。義務教育が解体されれば、次にくるのは単なる哲学に基づく自己陶冶の復権である。孔子が「啓発」の語(不憤不啓、不悱不発)でいわんとしていたのは、生徒の向学心や理解力次第で教える内容の深さ、形式の抽象度を柔軟に調整するという、仏陀の「方便」といわれる対機説法と同意だろう。