2019年7月2日

ソクラテスの不知の自覚は「未知の自覚」の方がふさわしい訳語説

納富信留氏が著書『哲学の誕生──ソクラテスとは何者か』(2017年、ちくま学芸文庫)や論文「ソクラテスの不知――「無知の知」を退けて」(2003年4月、『思想』)で主張したとされる、ソクラテスの言動を再現的に記述したプラトンによるαμάθεια(Amatheia、アマティア)とάγνοια(Agnoia、アグノイア、アグニア)の使い分けについてだが、孔子が『論語』為政で「不知爲不知」という言い方でソクラテスと類似の言動をしていたところから、納富氏は「不知」を新たにアグノイアの訳語にしていると思われるが、この孔子的不知と、ソクラテス的不知を見分けるのによりふさわしいアグノイアの訳語は「未知」ではないかと思う。
 いいかえると、プラトンの語るソクラテスは未知の自覚をもっていたのであり、納富氏が指摘しているのだろう、通説に於ける無知についてのメタ認知を持っていたが故にアポロン神託において賢いとされたのではないのだろう。なお私はまだ納富氏の該当の本と論文を読んでいないのでこれ以上詳しくは分析できないが。高橋里美氏によるニコラウス・クザーヌス "De docta ignorantia" (『学識ある無知について』)の訳語としての「無知の知」と、ソクラテス的不知が同一視されてしまった、という納富解釈がもし正しいとしても、新たにアグノイアにあてられた「不知」という論語での孔子の言葉を援用した語彙が同じ指示対象でない限り、それら哲学用語と無関係な「未知」という言葉の方がアグノイアの新訳語として適切だと私には思える。具体的には孔子がそこでいう不知は、どちらかといえばソクラテス的無知としてのアマティアに近い語義、つまり知ったかぶりの対極にある態度として、或る対象の知識をもっていないことすら知らないという状態だからだ。そして未知という漢字は、漢語的に未が否定の意味を内包するので、正にソクラテス的不知として或る対象の知識について「未だ知らざる」状態と解釈できるからだ。