2019年7月4日

思想警察禁止法案

愚かさはまだしも、悪意を愛しむのは難事だ。寧ろ悪意は憎むべきにみえるし、実際、慈悲深い人を除けば正義感からそう考えるものだからだ。しかし濡れ衣(冤罪)を鑑みると、愚かさと悪意の関係は次の様になる。
 知を全体集合とし、その内の要素を愚かさと悪意に分けた時、
1.愚かさは悪意の一部を含み、悪意は愚かさの一部を含む
(愚かさ⊃悪意の一部)∧(悪意⊃愚かさの一部)
2.愚かさの集合と悪意の集合には共通部分(悪意ある愚かさ、愚かな悪意。愚悪)がある
 愚悪=(愚かさ∩悪意)
3.愚かさには悪意でない部分集合(純粋な愚かさ。純愚)と、悪意には愚かさでない部分集合(純粋な悪意。純悪)がある
∅=(純愚∩純悪)
 俗人は知性のみならず徳性一般も低く、正義感も薄い。だから彼らは濡れ衣を平気で着せるし、自身が着せられても不運だとしか考えない。なぜなら彼らは知徳両面の判断力の高い聖人に比べて愚悪だからだ。これが裁判員裁判で冤罪がより生じ易い原因である。
 一方、過失は純粋な悪意と純粋な愚かさを見分ける考え方、また情状酌量は純粋な愚かさのみに基づく罪を軽減する考え方である。こうして動機説の面から罪の中で純悪と愚悪さの責任が重く、純愚のそれは比べて軽いとされる。知能犯は純悪を用いる。
 こうして冒頭に挙げた悪意とは、悪意、愚悪、純悪の3つに分類できるが、これら悪意群のどれも共通してそれ単体で卑しいものなので、結果説に基づかなくとも愛すべき代物ではない。しかし内心は外部から窺い知れない上に、これらの悪意群は虚構の中で反例を示すため用いる劇作時などに却って役立ったり、別の観点からみれば或る悪意とされる考えが功利性や革新を伴う思想的意義がみいだせたりするので、悪意群自体を罰せない。つまり悪意群は具体的に違法かつ他害的な結果に現れない限り罪にならない(推定無罪)。いいかえれば思想犯や内心に基づく共謀罪は成立し得ず、これらの犯罪を偽造する立法府・行政府(検察・警察含む)が実質の罪人である。よって司法府は少なくとも裁判官の良識に基づき内心・思想警察を退けると共に、議員らはこれら悪意群の推定に基づき罪の捏造を行った行政府を罰する法を制定しなければならない。具体的には裁判所は同起訴で冤罪事件を起こした検察官や警官らを内心の自由を守る思想警察禁止法で有罪とし、懲役、降格、禁固、謹慎、罰金等の処分を行わねばならない。