2019年7月19日

技術的特異点以後の科学教育は消滅する

説明の能力(解説能力)と探求の能力(研究能力)は別。ニュートンが一般向けの解説書を書かずとも彼が力学を大成したのは変わらないし、もしかすれば彼にとって『原理(プリンキピア)』は一般向け解説書だったのだろう。
 解説能力を研究能力と誤解するばかりか、前者を後者と比べより優れた本物の賢さだとしたがる偏見(解説主義)は、人類の脳がおかしがちな自己中心性の誤りだ。一般に人は自分にわかる範囲に近い正誤、それも自分の或る価値観に照らして賢愚を判定してしまいがちだから。さもなければ単なる客観的指標で賢愚を判定するしかなく、未知な分野のあらゆる詐欺的肩書きに騙されかねない(学歴差別を含む属性主義)。こうして解説主義の傾向は、少なくとも嘗て、自分と同程度の賢さを見分けるため一つの社会適応だったと考えられる。これが今日でも占い師(スピリチュアル、自己啓発、メンタリズムなど名をかえていたりする。これらはしばしば科学主義を含む。後述)を信じる人々が後を絶たない第一の理由である。彼らは心術を使い相手にぎりぎりわかる範囲の予言をするからだ。

 啓蒙主義なるものは解説主義の一種で、近代科学が宗教と決別する目的があった。が寧ろ今日は科学教(科学主義。自然科学の方法を他分野に適用したがったり、科学自体を唯一の真理と教義化する考え方)の蔓延から人類を救う必要がある。科学は悪用可能な単なる道具でしかないばかりか、常に誤りを含み得る研究主義(解説を目的としない純粋な真理探求)の部分であるかぎり、当時の知識が将来否定されるのは当然な疑義できる認識だからであり(反証主義を含む方法懐疑論)、そのうえ科学言語たる数学と自然・社会の両科学は倫理をそれら自体から導き出せず、根本的に信仰でありえないただの既存現象の分析にとどまるからだ。科学教批判に必要なのが、主張が必ずしも真でなくともよい芸術や(例:虚構)、数理論理と科学的思考をしばしば含みつつ全言語体系に於ける知恵の友愛を意味する哲学など、科学全体を包含していたり超えていたりする人為である。

 こうして解説主義による啓蒙は、本質的に難易度を相手の理解力にあわせなんらかの洗脳を行う、現在「教育」と呼ばれる心術使いに他ならない(ここでの教育は英語でいうeducationとほぼ同義。また近現代の日本語圏で教育の語彙が含むこの洗脳性は、『孟子』でいう英才教育の意味としての語彙とほぼ目的が一致する。子供の脳のあり方を、指導者がよいと考えるなんらかの方向へいざなうものだからだ)。本来いかなる教えも事実ならば疑義(今まで自分が知っているかぎりこう考えられているがそれはこの様な点で疑わしいといった反証を含む形)を、信仰ならば私見(他の人々と関係なく私はこう信じるといった個人的な形)を述べるしか正当でありえない以上、科学教の解説者であるところの教師は、理論的に職業として成立しない。なお教師なるものが現に存在するのは制度や、個人的な師事でしかない。
 もし将来も教育なるものの後継的な営みができるなら、前科学(科学言語の系)というべき数学については定義の説明、各科学については科学史の解説、後科学(社会科学を含まない後自然学)については単なる思想家として自説を述べる講演や著述、実作でしかないだろう。そしてそれは別の語彙、たとえば学習といったものがあてられ、洗脳としての性質を含む、旧教育とは呼ばれなくなるだろう。数学はただの言語規則だし、科学史の古今の反証を含む解説も一定の決まりで行えるから、AIの方が生徒の理解度に応じてうまく学習させられるだろうし、その学習支援システムの利便性はいうまでもなく研究能力そのものではない。科学的知能の高い人は以前より早く、人類の誤り易さを熟知した学習用AIの助けで最新の科学史上の段階まで進み、いわゆる数学や科学の教育者という存在は不必要になるだろう。またこの誤り易さの非典型性はAIに補完できない創造性の余地として、しばしばなんらかの高い評価を伴う様にもなるだろう。
 結局、数学の解説に技術的特異点(技特点、singularity)がくるのは最も早く、各科学はそれに次ぎ、後科学の殆どではおそらく永遠にこないだろう。なぜなら信仰は非侵襲的(ここでは履修可能な数学や各科学の史的体系に踏み込んでこないもの)で、しかもしばしば個々人に独自のものだからだ。尤も目下、後科学と考えられている分野(たとえば宗教学)が科学の体系に編入されるのはこれまで通りだから、技特点は人類一般の学習面での負担を外部に記憶装置化し(たやすく検索できるオンライン百科事典の様に)、軽くするのに役立つだろう。
 これら技特段階の進んだ未来で、なお倫理に関する哲学や、諸々の知識や道徳を生かす創意工夫としての芸術はできる仕事が残っているので、人類の知能は主にこれらの分野での高度さに収束進化していくだろう。科学の履修可能性は汎用的なので希少価値を減らし続けるばかりか、技特点が瞬時に史実を紐解くので既存の各科学知識の情報価値はゼロ以下になってしまう。IQに含まれる要素としてしか科学的学習による個体差が認められなくなる上に、それがより希少性の高い独創や、信仰のよさ(道徳性)と往々にして一致するわけでもない以上、主に科学教に基づく学歴差別は消滅するだろう。