2019年6月27日

和の構造的分析

恐らく自分以外の大抵の日本人はこれに全く不同意だろうが、「同意」をツイッター等のコメントで返信してる人達は全く価値がない情報を発信していると思う。同意は自見の正しさを保障もしなければそれ自体に意味がない情報だから。同意ツイートするならいいねで十分だが、いいねも同じ意味で無価値だ。
 反証的情報で、自見の盲点を揚げ足取りや年頭月尾でなく、総合的かつ批判的に検証できている異見が最も価値が高いと自分は思う。いわゆる知的な意見はそういうものだろう。相手が傲慢か低知性だと批判的意見に激昂したり、ブロック等で排除してしまうが、それを見越した言い方にしてあるとより高度だ。
 自分の場合、同意ツイートを下手に出てしてくる人がいるとその意見が間違ってる可能性を感じ、とても不安になる。だが異見ブロッカーは、自分の見た限りこの逆類型の感受性をもっている筈だ。ブッダが「同調してくれる愚者より非難してくれる賢者の方が優れている」といった理由は、反証の重要さだ。ではなぜ日本人一般が同意ツイートをするかだが、彼らは同調圧力に従う「和」が正誤に優越するよう義務教育などで洗脳を受けたのだろう。自分もそれを学校で受けていたので良く分かる。この民族病は全体主義的な天皇制ファシズムで致命的敗戦に突っ込む所まで行った悪癖なのだが、なんら直っていない。

 ところでこの日本人一般の和という民族病と真逆の言行類型は、一言でいうと対話術(弁証法、dialectic)になる。ヘーゲルがいう哲学の基本運動で、正反合の3定立を経て、否定媒介的に矛盾をもちあげていく論理構造を指す。要は日本人一般はこの批判的思考がほぼできず、ごく苦手のまま成人している。もっと遡ると、そもそもなぜ一般に対話術でなく和による同調が日本人風やりとりかというと、弥生時代頃から農村共同体で合意する為で、全会一致の幻想を利用しないといけなかったとか、天皇の無答責と和を一体化させる近代の一君万民論の原因まで分析できる。だがこの癖は日本人一般の決定的弱点だ。
 民主主義という言葉で多数政治に大義名分が与えられた戦後、和による全会一致の幻想にもお墨付きが与えられた。こうして集団虐めに最も好都合な全体結束主義の土壌ができた。日本人一般は数の圧制を「空気を読め」などと命じつつ少数派に強要する。たとえ少数者の方が遥かに正しくともだ。

 結局、異見を封殺し、同調圧力を強制しつつ、過ちを多数派として強行するという日本人一般の正義感は、「赤信号皆で渡れば怖くない」と同次元の実に幼稚なものだ。諸々の集団的蛮行の集積として、政治的には、衆愚の過ちを全体の象徴である天皇が最終的に正当化してしまう構造ができあがっている。この様な恐ろしい衆愚の国で生きて行くには、同意を一々全て疑うしかない。同意こそ蛮行のはじまりだからだ。彼らは自分が甚だしい過ちを犯していても、空気を読んで全く無意味に多数派と共に同調してくるし、逆に大成功し世界史に圧倒的偉業を刻んでも、少数派なだけでひたすら迫害や無視を行ってくるのだ。
 和が美質をもつ、という観点を保守派が強調するのは国内で典型的に見られる光景だ。勿論この意見自体が疑わしい。日本人一般はよく「皆が」「普通は」などの主語で、無理やり和を脳内妄想しさえする。そしてこの慣用句が使われるのは、大抵、なんらかの個人的悪意を正当化したい時なのである。