2019年6月17日

仲間ができる訳

話しただけで吐き気がする様な相手は、当人の気づかない悪徳の塊だからそうなのだ。たとえ相手とウェブ上で抽出的なチャットをしただけでも、あまりに相手の悪徳ぶりがひどいとまるで毒を盛られているかの如く、嘔吐感がとれなくなることがある。簡単にいえば気持ち悪いのだが、それが極端なとき穢れると感じる。
 相手の俗悪ぶりが甚だしいと、相手が同じ種類の人間だと感じられない。もし人権、特に自然権という概念が、もしくは人格主義や博愛、人間愛といった考え方の数々が我々に相手を尊重させようとも、己の徳と相手のそれの落差が激しいほど、やりとりは困難になる。こうして仲間が分かれる。
 ある仲間は共通の考え方、特に道徳観の共通度に基づいてできている、といってよい。これが我々に気の合う相手とそうでない相手がいる訳で、特に語族や職業集団、政党、会社、学校などの組織、そしてある程度の共通生態による地域、民族、国ができあがる最初の原因である。既に児童の段階でこの種の仲間分けが観察できる。
 普遍性をもつアガペーで人類愛を説いたり、全生物への慈悲を信じる集団では相手が利己的なことは悪徳の一種だが、現実の生命体は遺伝子の利己性、本能で部分的にしか利他行動を躾けられない。これゆえ人も他の生物を捕食し、なんらかの手立てで他の個体を利用して生きている。だが文明化とは総じて利他の体系で、互恵的利他行動や相利性を超え、外部経済を高度化する様な集団の傾向だ。一般に日本の俗人は中華思想に囚われ都市化と文明化を混同しているが、これは基本的に誤りだ。その集団がいかに合理的な利他性を発達させているかが、本質的な文明の質といえる。
 福沢諭吉は『文明論之概略』で智徳なる用語で文明化を分析した。一方、究極的にはそこでいう知識と道徳のうち、知識は或る道徳の部分であり、全知識は道徳に含まれる。道徳自体も知識だが、それは自然と社会の両方の知識(いわゆる科学)をまとめ合わせながら、倫理に応用した考えとして生まれる人為である。なぜ他人と道徳に差がつくかといえば、この総合に量や質の差があるからだ。つまり、ある人が身につけている学術の程度や種類間の共通部分の多寡が仲間づくりの根本原因であり、また或る文明が生まれる訳である。
 ある集団の多様性についての考え方、いわゆる寛容さも、ある文化素として徳の一部になっている。また低俗さに高尚さより親しみを感じるという大衆文化の傾向も、ある人がもつ癖に由来していて、いわば躾の結果である。未知の事柄へ好奇心をもつ知能の働きを拒むか、励ますかにより、ある個人が生涯で学習できる情報の総量は大幅に異なるだろう。