2019年6月11日

無知と不案内の違い

或る人が「人は人間であるべき、故に悪意を持っていてよい」と私にいった。私が「できるだけ神に近づくべき、故に善意のみに生きるのが正しい」といったのに反論して。アリストテレスは私と同意見だった。いわゆる幸福主義。中庸は善行の中で追求されるべきで、悪意を持ってよいわけではない。
 ここでいう神とは比喩であり、全知全能の存在といった意味をもっている。全知全能には広義で全徳性など美質の全要素が含まれている。我々が日々学ぶのは、自分より優れた存在に少しでも見習う為であり、知恵を身につけよりよく人生を生きる為だ。人はそれにも関わらず神自体には到達しない。アリストテレスが『ニコマコス倫理学』でいうよう、人はできるだけ神的存在に近づき、人の機能の中でも最も神に近い理性を働かせて生きるべき、という考えは、人間特有の不完全さを損なう事はない。つまり最初に述べた人はこの点を見落としているのだ。学ばぬ愚者より学んだ愚者の方がより賢明である。
 我々が悪意を持つべきでないのは自明の前提だと思っていたが、冒頭の人は悪意を過失の意味で定義していると後に言い換えたが、恐らく当人は、本気で悪意を程度こそあれ持っている邪悪なる人々に周りを囲まれていて、人というものは誰でも他人に害意を有する筈だという人生観を最初持っていたのだと思う。悪意は僅かなものでも、悪意そのものが悪い故にこの世で最悪の部類のものだから、調度、あればあるほど悪いものをより多く持つかに違いがあるだけで、単に悪意があるだけで自他に害なのである。しかしこの点を厳密に考えていたカントの様な倫理学者と違い、その人の様、安易に悪徳に耽る人が俗人な訳だ。

 その他にも最初に述べた人は、上述の事を説明した私に「あなたの考えを述べよ。他者の意見を聞いていない」といった。これは学んだ事がない人の意見として私としては大変驚いた。孔子が「述べて作らず」といったせりふの対極にある考えで、「巨人の肩」に一度も乗った事がない人もいるのだと分かった。

 最近、私は愚かさを再定義し直し、自分の持つ語彙の位階制内で下位に位置する何らかの言行を指すものを除けば、自分の語彙系から一定より遠い理解不能な言行にもしばしば愚かさと誤認し易い点があると考えた。例えばこの定義では娯楽ユーチューバーは大衆に人気だが学者の目に愚者にしか見えない訳だ。ここでいう自分の語彙系の下位の愚かさと、自分の語彙系から遠すぎるが故に愚かさと誤認されがちな愚かさを別の言葉で定義し直すと、前者が「無知」、後者が「不案内」となる。そして専門家は不案内な事については極めて誤解し易いから、他の分野で最高位の知者をも安直に愚者といいがちである。
 私はSNS上で次の様な種類の人達を無数にみた。それは或る分野で権威とみなされる程度の人でも、又は一定の学位をもつ人でも、当人が不案内な分野の天才級の人とか、極めて正しい意見をみても、「馬鹿だ」「失礼」などとブロックしてしまい、異分野の理解からますます遠ざかる人達だ。この種の誤解が生じる頻度は、或る人の受けた教育とか、彼らの辿ってきた経験や知識が一定の枠に限られていればいるほど高い。専門馬鹿、世間知らずというやつだ。不案内さが極度だと誤解が昂じた差別を平気で使っていて当人が気づいていない。特に理系馬鹿といった部類の人がとても酷かった。少なくとも日本の理科の大学以上の専門教育では、倫理を含む人文学を完全に軽視させている形跡があって、その種の人達は人間なるものを根本的に侮蔑している場合が頻繁にみられた。他人を道具視していて、自分の理科の分野に詳しくなければ即座に愚者とみなし、どんな知者をも平気で馬鹿扱いしている。
 教育分野の論点として専門分化、分野の相互交流がない細分化の弊害は恐らくある程度議論されていると思うが、学際的な自由教養が本来の哲学、本来の後自然学の前提であればこそ、各科はただの分野でしかない、という最低限度の学問の捉え方は、全学生に教えておくべきではないだろうか?
 なぜこれを記述したかというと、冒頭の人以外に、別の人に、私が科学主義の弊害(自然科学の方法論を他分野に無理やり当てはめる事で生じる数多の過ち)を説いていた所、数学だか物理だかの専門家らしき人が平気な顔をして私に「馬鹿だ」といったからである。疾うの昔に、アリストテレスは複雑な社会に関する後自然学で、数学や物理といった単純な対象を扱う時と同じ程度の厳密性を求めるのは無知の一種だと述べていたのに、この人は異分野に大いに不案内なのである。専門家としていかに優れていても全体として愚劣である状態は自らの不案内さで生じる。
 一方、この世で無知が存在する理由は、無知の知とは全く違う文脈になるが、反例の為だと思う。特に道徳的無知の場合、悪例になって、世の中へ与える反面教師性がはっきりする。ミルが『自由論』で自由の意義の一つに挙げていたくらいで、或る学問上の無知も同じ効果を持つはずだ。
 SNS上で異なる意見にブロックをくり返す人々は、荒らしへの対処(サイコパスやダークトライアドへの無視の効果)とは別の意味でだが、専門分化と同じ罠にはまって自らの不案内さを増し易い。科学とは総じて仮説の反証過程なので、よりよい真実へ気づく可能性も自ら閉ざし無知を強化するかもしれない。勿論、知性を使用するから脳本来の単純思考とは逆の作業になるが、反証的証拠を集めていく癖は、チャールズ・マンガーが学際性と共に講演内でダーウィンから学んだ事として勧めていたけど、確かに異分野を援用し、或る専門の進歩に帰する経過になる筈だ。専門馬鹿は別の種類の愚かさを伴うのである。