2019年4月4日

サブカル中央主義が美術を愚者の娯楽にしようと侵食している教義

芸術が他の分野を包摂する形で進化してきた情報系なのは間違いない。世俗化の過程でありながら、その中で昇華していく様な抽象化の経過なのだ。
 まあ確かに、津田氏の今回のキュレーションは、ツイッター界で、すなわちSNSなどのネットコミュニケーションで話題になるという点では今までにない非常な成功にみえるのだが、芸術の本質的なところには何の言及もないというか、展覧会自体のコンセプトは完璧だが、個々の作品は置き去りにされている。勿論ここでいう言及は、展覧会のコンセプトからの、美術自体の批評的文脈にのっとっての言及であって、単に個々の作家や作品を紹介するという意味ではない。
 日本美術史の中でほぼ同時期にあったバブルラップ展は極めて重要だけど、あいちトリエンナーレ2019は論争を呼ぶ政治的コンセプトを天然でやってた芸術界に無理やりねじ込んだ、という意味でネット右翼等からの敵意を買い異常なネット上の騒ぎを誘発しているのだが、展覧会終了後に重要視されるかな。「ネット炎上」で成功する、って、芸術史の中では確かにみあたらなかった側面だから、もしかするとその炎上度が甚だしくなったら世界レベルで言及される可能性もあるね。
 津田氏からひろゆき氏への言及でわかるよう、個々のキュレーターがいて、そちらは芸術的観点で作家を選出しているが、芸術監督という総合コンセプトを司るところに津田氏がいるので、個々の作家の中身との関連付けが弱いらしい。
 今後、同様にネット中心に一般大衆向けに話題になろうと各展覧会もまねてやりだすだろうから(しかも経済効果を狙って)、この炎上の以後の日本での美術展文化へ及ぼす影響は非常に大きいとみた。津田氏の本意ではないだろうけど、この炎上での大人気ぶりは、結果として今後ネット炎上をも「ネットで話題」と解釈して、インスタ映え勢とかTikitok勢とかをターゲティングした、ますます世俗的(大衆的・通俗的・商業的・政治的)なコンセプトの展覧会が国内で増産されるきっかけになるだろうね。
 僕ら純粋美術系の人達は、ますます令和日本の世俗的展覧会世界では総すかん食らい、今ですら極貧や差別で苦しんでいるのに、もっと状況が悪化するな。一体どうやってこの状況を脱すればいいんだ。以前から、東浩紀氏と関連深い人達の活動(カオス・ラウンジ含む)はみてたけど、こういう純粋美術(純粋な探求心をもっていて極貧なのに大衆迎合を拒否している側)への大衆を陽動しての徹底迫害という結果がもたらされるのって、サブカル擁護派が純粋美術のふりしはじめてから決まってた蛮行なのか。
 女性をもちあげるという集団主義・全体主義上の大雑把な文脈で、弱い立場の個々の男性はますます冷遇され、そのうえサブカル的な品性下劣さに妥協などしようもない魂のよく生まれついてる場合、世俗的な大衆美術からますます排除され、極貧から更に死へと追い詰められていくと。笑えてきた。
 サブカル中央主義(subculture centrism)が、問題を引き起こしている原因だ。サブカルチャー側がファインアート領域に侵食しまくった結果、逆にファインアートの学問的基礎や理知的側面を全否定している低俗な大衆商業美術が中央を主張する様になった。その最大の擁護派にして唱道者が東浩紀氏なわけだ。東氏はマンガ、アニメ、ゲームといったサブカルチャー側を、町人の大衆芸術が東京で延長されたものとして、東京人として素で賞賛していて、その低俗さとか、ファインアートの文脈を完全に無視している。東大博士号を後光にし、あたかもサブカル中央主義が正統かのよう一般大衆をそそのかしてきた。結果、日本人の大衆側は、サブカル中央主義が常識かのよう完全に信じ込むようになりつつあり、世界美術の潮流と全く違った袋小路に陥っている。そこで東陣営に与する津田氏が刺客として愛知県からファインアートの展覧会に抜擢され、結果、東派が日本のファインアートを絶滅にかかっている。カオスラウンジは日本の純粋美術を非文脈化しながら、東派の師弟関係・同業組合の中で戦略的に利益独占し、サブカル中央主義に汚染する為の存在なのだ。おそらく津田氏はこのことに自覚的ではない。茂木健一郎氏の方はそこまで東派に深入りしていないにせよ、ネット文化人の枠組みで間接擁護している。
 彼らサブカル中央主義者の基本概念は「低俗さの礼賛(学問的基礎付けを欠き、分かり易い大衆芸術と不道徳を賞賛する)」であり、自由資本主義市場とはかなり相性がいい。その最たる例が『君の名は』の様なマーケティングに基づいた完璧に商業的な大衆芸術である。芸術面では、サブカル中央主義を布教するべく、東浩紀氏が自身を教祖とした閉鎖的教団(ゲンロン)を作り、批判者を悉くブロックし、側近政治的にネット文化人を各界に送り出す。遂に国際展にまで関係者が及びだした、というのがあいちトリエンナーレ炎上の、純粋に文化的な背景だ。スーパーフラット理論を踏襲するかぎりサブカル汚染、すなわちパンとサーカスでいう、サーカスに該当するアートの大衆娯楽化、結果たる衆愚化はやまないだろう。純粋芸術にとって、大衆性とか商業性を否定しきる必要がある。日本の現代美術は衆愚的な政治環境、東京文化の低俗な大衆性も影響して、単なる愚者の楽園みたいになりつつあり、末期ローマ状態なのだろうな。愚民を楽しませる娯楽として退廃的ゲームとかエロマンガ、幼稚なアニメ、ポルノといった客寄せ要素しかないものが選好され、高尚高貴なものほど忌避される。
 普通に世界美術、欧米美術の頂点をめざし、平成日本のサブカル中央主義文化を無視していれば、勝手に大衆側が堕落してくれる。何も意図しなくとも差異化される。村上隆氏のスーパーフラット理論も、今までどうやってのりこえようか散々思案してきたが、まさか無視すればいいだけだったとは。サブカル中央主義の一部、単なる退潮に過ぎなかったのだ。村上隆氏の死後、自分が今言っていることが真実になるだろう。スーパーフラット派はサブカル全部まとめひとくくりになり(カオスラウンジも)、一時的な文化の退廃、庶民の低俗化の過程として一行でまとめられる筈だ。 
 平成文化は大衆化・商業化が進み、サブカルチャーが隆盛した(超平面派)。
 美術の神は存在する。そうでなければなぜこれほど筋が通った道のりが用意されているのかがわからない。知的設計論ではないが、ミューズ以外の誰が私にこんなまっすぐの道を用意しているのか。しかも勝手に大衆がよけてくれるのだ。
 日本国内でなんらかの文化が退廃を起こす第一原因が、同業組合(ギルド)や集会(サロン)といった排他的メンバーの組織を作ってしまうことにある。これをきっかけに仲間内の擁護、正論の排除、権威の捏造、成員の洗脳などがはじまり、最後にはファシズム的ないじめが生じ、自己崩壊に至る。少子化と経済衰退で、低教育な庶民に迎合してきたサブカル中央主義も過去のものとなるだろう。
 私の意見では、男女平等に触れることが潮流なのはアートではなくて政治界ですよ。アート内でLGBTは幾らか語られてきたが(シンディーシャーマン、メイプルソープとか)、そもそも女性作家は昔からいるから、男女差別が存在していないに等しい。誰が草間弥生さんとかオキーフを差別しているというの。津田さんのキュレーションが話題をもたらしてるのは、実力勝負の芸術界で男女差別なんて元々ないに等しいのに、あたかも最初からあるんだみたいにめちゃくちゃな逆差別の論理をもちこんでるからなんですね。それが悪いわけじゃなくデータを恣意的に引用し、実力を無視しちゃってる。だから炎上してる。
 すごく簡単にいうと、美術家なんて繊細な作業ですし心優しい人達でどっちかといえば女っぽいほどなので、男性でも女性らしいというか、女好きがする性格なことのほうが多くて男尊女卑なんてちっとも想像もしていないと思うんだけど、その人達にいきなり「男女差別すんな!」っていったら悲しいでしょ? 私も絵をずっと描いてきて、ずっと家にいますし、外で働くのも競争するのも苦手だし、どっちかといえば女性の心に近いほどで世の野蛮な男性たちに嫌気がさしてきたのに、いきなり「男女差別主義者どもめ!」っていじめられたら泣きたくなるわけでしょ? 泣けないから怒るんだと思うよ。私はあいちトリエンナーレ2019問題をメタ認知ってか、客観視して、「なんか炎上してんなあ」って見てるから怒ってもないけど、ああこうやって逆差別で、あんないい人達ってか女中心なくらいの世界なのに、そこで男性の中では女っぽくて社会でいじめられてる人達(美術家たち)がかわいそうとおもうよ。「女好きがする性格」って誤解を招き易いあいまい表現なので、より詳しくどういうものをさしていいたいかと言うと、暴力を好まなくて女性たちと絵でも描いたり鑑賞したりして感情豊かで心細やかで芸術作品に感動して涙を流したり愛の歌をうたったり、失恋で胸が引き裂かれて自殺しかねないような人ね。