2019年3月2日

真の適所は資本主義的SNSの外にある

SNSは社会的承認を得るミーム競争で、いいねやフォロワー数でその競争が促進される様にできている。俗受けする他の大衆メディアとくみわせて使う人に票が集まり、そうでない人は量的承認が得られないので惨めな思いをする。承認欲を量的に満たそうとすると通俗的な人格を作るしかなくなってしまう。単に通俗的な人気を集めているだけの人が最善の人でない(例えば神的人格や聖人が無名でも最善さは変わらない)ことは明らかだから、SNSは総じて運営会社の営利の為に人格をより低俗に変化させる効果をもっている。
 人格をより高尚にするSNSがあれば、それは参加した方がよいサイトになるだろう。しかし現時点でフェイスブック、ツイッター、日本でいうミクシー、アメーバピグなどはその様なしくみではない。およそ量的承認を鼓舞にしているからだ。逆に大衆的なテレビ芸能人や商人全般とは相性がいい。
 最善の人はさほど多い友人を必要とせず、生を共にするのに足る少数の人達で十分と『ニコマコス倫理学』でアリストテレスが述べていたと思うが、ゴータマ(仏陀、釈迦)も似た意見の持ち主で寧ろ自分より劣った者を友にするなと述べていたし、このことはSNSについてもまったく同じだと思う。ゴータマの同句は『ウダーナヴァルガ』(中村元訳「感興のことば」)14章15-16「旅に出て、もしも自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。愚かな者を道伴れにしてはならぬ」「愚かな者を道伴れとすることなかれ。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。(後略)」とある。
 今のYouTubeの場合、一般の承認欲を超え視聴回数が広告収入に直結しているから、SNSの中では総じて視聴率に応じた利益配分が出演者にひもづけられたテレビ芸能界に近いしくみをもっている。それでヒカキンがテレビ芸能界に出入りするのも、両者の俗受け鼓舞の親和性が高いため促されることなのだろう。SNSで成功しようという無謀な軍拡競争は、最終勝者が最も低俗だと認められる、という意味で皮肉を含んだものだ。しかも彼らはSNS運営会社の広告宣伝に従事する客寄せパンダでしかない。小学生がYouTuberを目指すのは、少年世界での人気者と混同し、その宿命に気づいていないからかもしれない。
 自分がみているツイッター界(恐らく極めて偏っている)の論調は、脱社畜論というやつで、労働者をやめ早いリタイアを目指し、資本家(投資家)側なりオーナー側に入ろうというものだ。ロバートキヨサキの論調をそのまま踏襲している。資本主義への適応として資本収益のみで生活を維持できるだけの蓄財をはかり、天皇制の様な国による徴税システムから逃れ租税回避地で楽して暮らそう、というのがこの脱社蓄論の一つの最終形態で、いわゆる自由至上主義(リバタリアニズム)だといえる。
 商才が生まれつきあるか、後天的に身につけられた人は実際にドバイやシンガポールに逃れたり、ケイマン諸島に登記上のカネを置いて既に楽して暮らしてるわけだけど、この流れに乗るのって自分もやってみたけど殆どの人には無理だと思う。アメリカで早いリタイアを目指すFIRE運動があるのは知っているが、現実にそれをうまくやれるのは商才パラメーターが最初から高いか、後天的に高められた人だけだ。そして殆どの人はそこまで商才がない。それでなんらかの労働なり生活費の為の仕事に縛られている。
 SNS全般での売名競争もそうだけど、FIRE運動での蓄財も、難易度が高すぎて殆どの人達は負けてしまう。自分もそこでうまく生き残れるとは全然思えない。自分が生き残れない競争につっこむのは、馬鹿だけだ。青い海で泳ぐ為には、SNS売名競争とか、しばしば(インフルエンサー業として)それを含むFIRE運動での蓄財過程とかそのものを逃れるしかないのではないだろうか? と思う。じゃあどこへ? どうやって逃れられるのか?
 インフルエンサー商人達は、人気取りがうまいので「SNSで有益な情報を出して売名すれば蓄財できて、早くリタイアもできるし、皆も情報商材を売ったりYouTubeしたり投資で儲けましょう」といっている。それで信者からサロンや商品でカネを儲けて、信者中ほぼ自分だけがリタイア以上のカネを集めている。そういうインフルエンサー商人らは「これからは圧倒的個人の時代」とかいっていて、要するにSNS等を使ってごく一部の目立つネット芸人が大儲けできるといいたいらしい。そうなれない圧倒的多数の人は挑戦するだけ次々殺されまくる死地みたいな場所に、自分から突っ込んでいっているわけだ。「じゃあお前に何の策があるんだ?」「少なくともお前に金儲けの手段があるなら教えろよ」「文句いうだけなら馬鹿でもできる」とか信者達はいうだろうけど、自分はただ実際にやってみた結果、これは無理じゃね、と思う。負ける戦いを続けて意味あるの? と。新卒一括採用の網の目からこぼれ落ちたか、そもそもそこに参加するつもりもなかった人達は、インフルエンサー業に洗脳されてネットに何か人気とり情報を流して殆どはただ働きさせられ、極貧で死にかけている。そして自己責任論でそういう圧倒的多数の人を辱める。お前が無能だ、お前が悪いと。
 ネット社会は世界ではザッカーバーグ、日本ではひろゆきを代表者として世界に随分と不幸を増しただろう。彼らの歴史的評価は後生に待つが、現時点で自分が経験している範囲では、心底、最悪の時代だったなと思う。そして彼らは自分の金儲けを第一にしていたし、世間の幸せはどうでもよかったんだろう。少なくとも僕は世間の幸せを増すほうに力を使いたいし、それはザッカーバーグやひろゆきがネット世界にもたらした負の影響の逆を履行することだと思う。世間の幸せを第一に考え、自分は世間が幸せになった結果として、自分もその一員としてのみ幸せになった、というのが本来すべき道具の使い方と思う。自分もそうだが、人類の過半は特に俗受けする様な恥知らずの才能はないし、炎上ブロガーだかYouTuberになってサロンビジネスで大儲けしても罪の意識をおぼえない金儲けサイコパスでもない。そういう人間になるべきだともちっとも思わない。だからインフルエンサー業者の教義は基本的に嘘だと思う。自分は無能で何の才能もなければ、カネ儲けをネットでうまくやれることなど到底ありえないし、仮にもその種の欲望やら希望やらをもつと大概裏切られて前より苦労を背負うだけだ、と冷静に自己認識し、しかもそういう「いわゆる凡人」が圧倒的多数だ、というところに軸足を置くべきだと思うのだが。
 SNSは俗受けする人を炙り出し、その様な「低俗さ」が最も高い価値をもつかのよう世間に刷り込んでいる。なぜなら広告媒体としてその種の低俗さをもつ人がフェイスブックやツイッター、ティクトクの経営者側に都合がいいからだ。低俗さは元々、低い価値をもつものだった。実際、下らなさとほぼ等しい。SNS文化人と呼べる圧倒的多数のフォロワーがいる有名人らが、人気YouTuberと同じで低俗で下らないのは全く当然のことで、広告媒体としての鼓舞が営利の中心になっているので、そこに自分の様な低俗さを嫌う人物は適応できない。凡人性を述べたくだりと矛盾しつつもこの両者は確かな事実だ。低俗な人気を素でもっている人は、SNS企業を通じ客寄せパンダとしてカネ儲けできる。一方で凡人と低俗さは親和性は高いが同じものではない。類似ではあるからティクトッカーのよう素人中心のSNSも、低俗さという観点から高い人気がある人が選択される。
 ニッチ(適所、隙間)という経営学の概念を使うと、SNSの中でも高尚であったり例外的な個性が生き残る余地があるではないか、と思うかもしれないが、これは基本的に無理だ。再生回数・フォロワー数至上主義という形が経営側に築かれているし、情報商材の売り上げもほぼそれに比例しているからだ。営利性を目的にしている人達はどうやったらもっと低俗になれるか、もっと大衆迎合し俗受けするにはどうしたらいいか、とマーケティングを応用した作品を作って行った。まだ見てないけど『君の名は』はまさにそうやって作られた様だ。この方向を広い道、広い門と考えほぼ全日本人はここに集まっている。が、自分は当然ながらその種の全体主義が天下で一番嫌いなので、勿論、世間を見渡して最も狭い門を探す。それは自分がひねくれているからではなく冷静に、生き残る為だ。