私は今悟った。
今の時代に足りないのは弱さだ。その弱さ(特に自分の貧しさ)を認め、背伸びせず、その弱さと共に生きるべきなのだ。トランプや安倍の様に背伸びしたり自分を大きくみせようとするのが最も格好悪いことなのだ。等身大の自分を認めるのが最も難しく、また高貴な精神の証明になる。自分の弱さ、貧しさと共に生きることが重要なのだ。清貧と呼ばれる賎貨道徳に基づいた精神は武士と共に失われてしまったが、拝金主義の巨大な圧力の中でなお清貧に生きることができれば、その人は侍の様に高貴なことが証明されるだろう。金儲けの時間をできるだけ遅延することが、上品さや高貴さを証明してきた。その究極の姿が清貧な近代画家像、特にゴッホに象徴されてきたのだ。彼はキリスト教宣教師出身の絵描きとして、金儲け自体を弟に全面的に委託し、結局、死後までその時間を先延ばしした。これが彼の伝説を作ったのだ。弱さ(経済的弱さがその最大のものだ)は人間性の証明であるばかりか、成金らの拝金主義的な世相への最大の反抗であり、批判でもある。商人達は一人残らず金儲けにたかり、全員が血の海で喘いでいる。真の弱さと共に歩もうとすることが逆説的に最高の知恵、狭い門であり、最短で最善の道なのだ。
今自分がいっていることは「あまりに正しい」ので、恐らく同時代人の中でも貴族と呼べる人々(皇族らのことではない)にしか認知も理解もされない。しかしこれが真実だ。資本主義の行き着く果ては、これまで日本の伝統的貴族が辿ってきた道と同じものになる。
私は映画『天心』の中で五浦派の画家(大観や春草ら)が、清貧な前衛性の探求者という近代芸術家像をあてがわれているのを見た。大観は実際に武士の子だったし、天心もそうだった。彼らに象徴化されている精神的態度は、侍から前衛画家に賎貨道徳をもつ日本的な貴族性が伝承されていると教えていた。ジェフ・ベソスやビル・ゲイツ、ウォーレン・バフェットら世界の頂点に位置する億万長者を、日本商人らはひたすらまねようとしている。敗戦劣等感が原因だ。だが私がここではっきり宣言しておくが、寧ろ日本人がやるべきことはこの真逆に行くこと、決してアメリカ人の文化を真似ないことなのだ。寧ろ日本人は「ますます日本的、国風的」になることによってのみ、世界史の中で価値をもつ。オーケストラでたとえられるよう、各国民は文化の違いに根ざした固有の独自性をはっきりもつ個人であるほど、国際社会の中で意義をもつのだ。
前衛画家と侍、公家といった貴族の共通点は清貧さだった。岡倉天心が『茶の本』で看破していた通り、戦争の勝利は決して文明的なことではない。芸術を通じた相互理解と共感に基づく交流の方が遥かに文明的なことだ。この重要な逆説は、平成の安倍政権についても全くあてはまる。薩長藩閥の流儀は外様的野蛮さを150年間アジア一帯におしつけただけだった。薩長土肥ら西日本の人々がマキャベリズムの模範と仰ぐ米軍にも同じ批判があてはまる。いくら世界中を金に飽かして侵略しても、それはただひたすら野蛮なだけだ。勿論、安倍氏という長州閥の末裔がその蛮行に加担しても結果は同じでしかない。米国の金の使い方が野蛮なのは、文明化されていないからだ。もし富国強兵論に基づいて金を儲けて近隣諸国を脅迫したり侵略したり、米軍の属軍となって中東の人々を大量虐殺したりするのが薩長流儀のマキャベリズム的野蛮さなら、私はこれを完全に侮蔑しかできない。欧米人の暗面は反面教師にするべきであって、猿のごとくまねるのはただの愚行でしかないのだ。
新渡戸稲造が『武士道』で定義した賎貨道徳の起源は、儒仏両教の混合と国風化だろう。明治時代に薩長藩閥の手で拝金主義が旧政府内に導入され、いまだに安倍政権がその後胤として同様にふるまっているが、これら利己的金権政治は本質的に、日本的な高貴さの対極に位置する精神的態度である。新渡戸によれば武士の子は金を汚い物と教わり、金勘定を町人階級ら低い身分の者がやるものとしつけられた。この賎貨思想は権力と金の癒着を防ぐことで、武士達を政治に専念するよう鍛えた。平成時代の政治家達には一切みられなかったこの態度を受け継ぎ、現に生かしているのが我々、前衛芸術家だ。前衛芸術家の作品は、無教養な庶民市場で理解も購買もされようがないので、自然に清貧な立場に置かれる。町人(下層階級)の末裔である日本商人の品性下劣で低俗な悪趣味と、それに媚売る通俗作家との間で、進退できない。結果、貴族性と共に至善に止まるしかない。これが自分が堕落を免れた理由だ。現時点で、外様的野蛮さを恥じない薩長系統の寡頭政が続く東京政界も、下衆な町人の末裔である商人も、自分が伝承したこの清貧さに留まる動機付けをもっていない。したがって私利を目的に双方癒着し、退廃した社会を作っている。これが日本腐敗の根本原因なのだ。彼らは米国模倣を名分に堕落している。
正しくは、金を汚い物とみなしてなるだけ遠ざかり、食うに困る様な状態でありながら盗泉の水を飲まず高潔に生きる、という精神的態度を維持しなければならない。そしてその日本的貴族精神を堂々と世界に広めようとしなければいけない。これが日本人の世界史に貢献できる唯一無二の役割でさえある。
現時点で自分が洞察しここで書いたことは、日本国民1億2633万人のうち恐らく自分以外の誰にも理解されないだろう。だが後世の人は自分がいっていたことのみが真理で、次世代から見れば自分だけがこの時代で唯一の代表者となる筈だ。歴史は貴族の精神を記録し、庶民の卑俗さを忘れたがるものだからだ。学芸と政治・経済の癒着を最低でも防ぐことが、自分の代表するこの時代の貴族の役割だ。我々芸術家は純粋学術の守護者でなければならず、商業芸術とか金欲しさに通俗科学とかに媚を売って水準を低め、その本来の高尚さの上限を高めるという、理想的な役割を忘れてはいけない。御用学者など無論である。我々芸術家は金も権力も拒否し、そもそもカネや地位を求めないばかりか、万一カネが手に入ったら直ぐにでも寄付に回しなるだけ私有分を減らすべきである。地位は常に無位でなければならず学歴や賞歴の様な箔付けも極力捨てるに越したことはない。単に、我々は学芸水準で世界最高を更新するだけでよい。そして我々芸術家は商人にも政治家にもなることなく、同時に商売人達の品性下劣さを自作を通じた高い趣味の模範によって羞恥させ、批判できなければならず、政治家らには哲人王あるいは貴族の理想に則って自らが主権者の代表格として公僕へ為すべき義務を命じ、当為を啓蒙する立場でなければならない。アメリカ人の拝金道徳を軽蔑し、日本人独自の賎貨道徳の道を行くこと、しかも欧米の猿真似が始まった明治以前に確立されていた国風精神から最善最美の点を抽出し、現代に再適用し直すことで、完全に日本的としか言い様がない、この上なく高貴で、独創的な存在となることが我々の文化史上の使命である。日本中のアメリカかぶれが金儲けを嫌う私を軽蔑し、貶めても、それが却って私が誇るべき貴族性を保っている証拠になる筈だ。商人達が大通りに雲集しシリコンバレーのIT長者を模倣していても、私はその真逆の門からラットレースを第一に出る。私こそ最初のペンギンだ。私こそが真の革新者だ。
私利私欲の一切を捨てて生きることが、アメリカの全商人を超えて革新的な生き方であり、資本主義を乗り越えてまったく別の文化を創る唯一の出口に通じる鍵のありかである。私はその扉を出て、既に資本主義界を別の旧世界と見ている。私は人類史の最前線に出た。ここは名づけられていない場所なのだ。私は利益で動かない。私は商人にならなかった。それは私が貴族だったからだ。私の中には日本の伝統が息づいていて、孔子や仏陀が生きている。侍らが目指した理想が私を前衛芸術家に仕立て上げた。私はこの意味で誰かの魂の乗り物なのだ。精霊geniusの働きたる天才とは、継承的ミームのことなのだろう。