2019年3月6日

ツイッターは大衆承認ゲームでしかない

ツイッター、数ヶ月やってみてわかったけど、賢いとは言いがたい人達が雲集してる場面に遭遇しがちだから、時間の無駄だな。どうせ何を説いても反省するほど上等な人など殆どいないのだから、視聴専用ならまだましだ。情報発信に使おうという考えが間違っているとみられる。
 視聴だけしていると、一体、ツイッタラーがどの程度の民度かは実体験としてわからない。少なくとも参加してみると、思った以上に民度が低いことが体感される。みているだけの時は賢く見えた人に直接返信してみると、驚くほど浅はかな態度や虚栄ゲームの様なフォロワー獲得合戦が透けて見えてくる。
 ツイッタラーが原動力としているのは承認欲求で、それは「いいね」「リツイート」「返信」「フォロワー数」というの4つのステータスとして表れる。この4つのステータス値を操作する承認ゲームとして何かをさえずっている、というのがこのSNSに入り浸っている人達の中身だ。
 色々試してツイッターのしくみがほぼ完全にわかったので今月で自分はこのSNSで直接さえずるのは殆どやめると思う。自分にいえるのは、ここでの承認ゲームは中身がない、無意味な競争にすぎないということだ。
「いいね」は他人が自分のさえずり(ツイート)に同調している証拠になる。同調は、自分の意見が反証され誤りに気づけたり、より知的な意見を教わりうる場合ではない。いいね数はこのため自身の成長にとって最も意味がない指標だ。しいて言えば通俗性の度合いといえる。
「リツイート」は自分の意見に他人が何かを重ねている場合、またはそれを拡散しようとしている場合に数値化される。拡散自体は同調と同じだからいいね同様ほぼ無意味で、虚栄心の原因になってしまうので望ましい指標でない。問題は、次の「返信」もそうだが、他人が何かの意見を重ねてきている場合だ。
「返信」はリツイート同様、他人が何らかの意見を自分宛にしているのだが、初期設定ではフォロー外からも通知が来るのでこの意見を一々見ていくと、大部分は単なる読み間違えや質の低い誹謗である。反論が弁証法的(対話術的)に有効な場合がまれにあるが、詭弁を弄している人も多い。未知の知識を教えてくれる時が最も望ましく、その様な場合もまれにあるが、大抵その種の言動を取る人は悪意からそうしている。つまり「お前は自分より愚かだ」と自身のフォロワーに示したいがゆえ相手を踏み台にしようとする目的で、わざわざ相手にとって未知の知識を教えている。いいかえると、全体として親切や善意から相手に知識を教える鼓舞がツイッター上には用意されていない。次の「フォロワー数」が以上4つのステータス値で最も重視されるものなのだが、その為に返信やリツイートを私用し、相手を踏み台にするというのが基本状態である。もっといえば他人は利用される。
「フォロワー数」はその人がツイッター上でどれほど人気かを示しており、ツイッタラー間ではこの数値だけを見て相手の社会的な格を言外に見定めている。勿論、フォロワー数が多いほど格が高いとみなされる。ところがフォロワー数はそのアカウントの立派さや品位ではなく、単なる大衆性の値である。結局、ここにツイッターというSNSの現状の限界がある。ここでは大衆的な人物が選択され易い。自分を大衆化したいと願う人にとっては「いいね」をもらう動機づけから始まり、「リツイート」で虚栄心を増し、「返信」で他人を踏み台にしながら、「フォロワー数」を増やす全過程が適所だが、自分は違う。自分は大衆的な人間になりたくない。その為の技術もない。今後、身につけたくもない。グーグルトレンドとかテレビとかオリコンニュースとか見るとうんざりする。だからツイッターは自分にとってふさわしい居場所ではなかった。ここに最適化できないし、する必要もない。
「いいね」「リツイート」「返信」「フォロワー数」という基本的な4つのステータス値を中心にツイッタラーの承認欲求を加速させ、次々情報発信させながら広告を間に挟んでツイッター社が収益を頂戴する、というこのサイト。名誉毀損や人種差別が恣意的に判定されたかと思いきや、いきなり凍結される。自分が10年位前だったかツイッターが出てきた頃に見ていた限り、引きこもりの様な人達が物凄く反社会的で内向的なつぶやきをしていたので自分がブログに「つぶやき」と意訳して書いたらいつの間にか、本来の直訳である「さえずり」でなくそちらが定着してしまったこのサイト。参加してみたがやめる。
 カジュアルブロッカー有名人については単に愚者というべきだ。この人達は矛盾や違和に満ちた他人の情報を受信するより自己発信する方が価値が高いと思っている点で、ただダニング・クルーガー効果でいう無教養の甚だしい人達でしかない。いずれ忠告してくれる賢者を周囲になくし、自滅するであろう。