2019年2月8日

卑俗な情報を避けつつ反証的情報をとりこむこと

ガウタマは「愚かな者を見るな。そのことばを聞くな。またかれとともに住むな。愚人らとともに住むのは、全くつらいことである。仇敵とともに住むようなものだからである。思慮ある人々と共に住むのは楽しい。親族と出会うようなものである」と述べたとされる(『ウダーナヴァルガ』25章24)。
 一方、ツイッター上のブロックをめぐって、茂木健一郎氏は堀江貴文氏の発言を引きながら、およそ「都合の悪い情報を遮断すること」と定義された情報鎖国という言葉で、あらゆる情報にふれることを推奨している節がある参考動画)。茂木氏は認知的ミュートという概念を用いて、ブロックせずとも無意味な情報は意図的に無視すれば十分だと考えていると思われる。
 ではガウタマのいう「聞くべきでない愚者のことば」とはなにか? 彼は直前に「称賛してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する称賛よりも、賢者の発する非難のほうがすぐれている」(同著同章23)とも述べている。ここで懸案になっているのは、自分がもっている或る意見に対し、それをなんらかの観点から多少あれ否定していたり、自分の主観の中にはなかった新たな要素をつけくわえてくる他者の意見をどう扱うか、という問題だ。反証主義の観点に立つと、或る命題の真理らしさを検証するには、あらゆる反対の立場からその意見の間違いを指摘しつづけねばならない。もしその命題が真理であったなら、全ての反対意見によってさえ最初の主張が否定しきれないことが証明されるというわけだ。勿論、この間、詭弁は廃されねばならない。ガウタマの指している「賢者の非難」とは、この反証的意見だと考えられる。と同時に、茂木氏や堀江氏が情報鎖国の否定により特に摂取しようとしているのも、ほぼ同意のものであろう。情報という単位では、さらに要素として自己の意見と程度こそあれ違和するあらゆる差もここに含まれてくる。
 賢者の非難がそう定義されたとき、「愚者の称賛」は自己の意見と差がない、いわゆる同意であって非反証的なものだといえる。自見が仮にも正しいと思って主張した場合、この種の弁護は学問的に全く無意味だ。「小人は同じて和せず」と孔子がいうよう、同調は自己過信や集団浅慮につながり易い。多数政のもとでは同調者数が力をもつため、そこで権力を握ろうとする者は人気とりや大衆迎合に走り易く、意見の正否が支持者数にすりかえられてしまう。大衆主義と呼ばれる政治形態は、より低俗な愚者の称賛を起因としがちなので、多数政を堕落させ衆愚化する第一歩と考えられる。
 ところで、ガウタマに「愚者のことば」とされたものの中には、品性を落とすたぐいの文句が含まれている。我々は幼児がその種の悪徳に満ちた俗言を耳にするのさえ危惧する。ガウタマが「愚者のことばを聞くな」といった時の言葉とは、この種の俗語のことだと考えられる。単なる反証主義や、多数政の堕落を避ける観点から、あらゆる情報に接していると、知らずしらず俗語まで耳にしてしまう。けれども、卑俗なことに詳しくなく、高雅なことに詳しいというのが育ちのよさの重大な用件である。良家が子女をできるだけ俗語に接さないよう育てようとするのは、その俗事を表す概念には多少あれ悪徳が含まれているからだろう。良家が子女をできるだけ俗語に接さないよう育てようとするのは、その俗事を表す概念には多少あれ悪徳が含まれているからだろう。逆に情報の無制約な開国下で俗語にも触れて育った子女は、知らなくていい概念をしっているため紳士淑女から軽蔑され、それどころか俗語の使用に無自覚なことさえある。同じことはガウタマが「愚者を見るな」といっているよう、単に言葉だけでなく、悪徳に関するあらゆる俗事の認知についてもあてはまる。一方、俗事も雅事同様果てしないので、情報の批判力にまさる大人にとっても詳しさは人の興味を示しているといえる。
 これらの分析から次のことがいえる。
 情報の遮断はそれが卑俗なとき有益であり、高雅なとき有害である。同時に反証的情報についてはあらゆる観点からそれをとりこみ、自見の誤りを修正し続けねばならない。多数政が大衆迎合を要求しても、却って高貴な少数集団に属すか、至善に止まる独りが優る。いいかえれば、ツイッター上のブロックやミュート、無視(認知的ミュート)はこのため適宜つかえばよいのであって、なんらかの単純化した型は目的に背くと思われる。明らかに卑俗なアカウントと分かればミュートしたほうが無用の俗事を見なくて済む。しかしこれも勘違いのこともあり絶対ではない。
 ブロックは相手に拒絶感を示すから、はじめは荒らし対策として作られたのだろう。がストーカーに反応すると喜ばれるという現象がある様なので、その場合はすぐ警察に相談して具体的力で防止措置をとる必要があるし、ブロックが逆効果になりそうでもある。したがってブロックの使い道は、自分に想像がつくかぎり有名だが悪徳に満ちたアカウントに自分のツイートを表示させない為だが、サブアカウントなどを使えばやはり自分の投稿がみえてしまうのだから、フォロワーを厳選した鍵アカウントなども組み合わせねばならず、あまりよくわからない。
 無視というのが最も単純な情報の整理法ではあるが、これでは卑俗な情報も頻繁に目に入ってきてしまう。つまりミュート、ブロック、無視は卑俗な情報を避けつつ反証的情報をとりこむという目的にとっては道具なので、いずれも完璧ではないし、使い方を工夫し続ける必要がある様だ。
 ツイッターをフェイスブック的な現実の仲間内で使う時、鍵アカウントとブロックをくみあわせれば排他的集団を作れる。しかしもともと鍵アカウントなので外部者に自ツイートは表示されない。つまりブロックする必要があるとしても集団内なので、いわばブロックは結束性を強化する道具なのだと思われる。結束主義が全会一致の幻想に耽り易いのは史実が示す通りだった。鍵アカウントとブロックをくみわせた排他集団も、なんらかの理由で自分と違和するフォロワーに拒絶感を示しつつ自己の情報を遮断させる結果となるので、この幻想を抱き易くなるかもしれない。
 裏返せば自己反省の契機は自分と違和する情報群からやってくるのだろう。無論、既にある程度示した様それら全てが正しく、或いは高雅であるとは限らない。他人のアカウントが善意であれ悪意であれ、以上のことはやはり当てはまると思われる。