2019年2月16日

科学信者の愚

自然学の分析手法を後自然学の総合手法にも直ちに適用しえないことから、後者の当為性が真理性の一部でないと思い込み易いのが科学信者の愚だ。実証主義を信仰の一部とすら刷り込まれている場合、その科学教徒が一部の当為を含む社会学や、後自然学野の大部分に及ぼす有害さは甚だしくなる。当為を単なるイデアとして検討する能力がないのは、後自然学の対話術(弁証法と訳されているdialectic)や助産術等の基本的な学び方を知らない為である。
 ソーカル事件は後自然学の手法が自然学の手法と同一でないことを証明したに過ぎず、それは間接的に後自然学の非厳密性、即ち抽象性を意味するだけである。詩劇を含む文学は後自然学の一部だが、そこで虚構や詭弁、言葉遊び、非科学的な言辞は全くの自由だ。当為にとってこれらが役立つなら、寧ろ修辞の全てが肯定される。ある科学信徒がソーカル事件をポストモダン哲学の誤謬性と同値に扱っていたので、私はその者が愚物だと思った。当然、ソーカル事件自体は取るに足らない自然学の分析性と、後自然学の総合性をいれかえることによる皮肉な遊びでしかなく、冗談の一種としかいえないものだったのに、その者は自らの科学教を確証偏見で強化する為にこの非科学的言葉遊びを侮蔑していた。私自身の小説作品もそうだが、言葉遊びや信頼できない書き手といった虚構を発展させた手法群は文学の中で単なる言い回しの一種としてしばしば何らかの効果を目的に用いられうるものなのであって、それは比喩を用いたり、科学的言説を含むなんらかの可謬性を直接示す目的で、倫理についての学(ここで学は知識の体系という意味)の様な哲学的著作中でも使われることがある。一体、ダイモニオンとかエロスという擬人的神の概念を用いて己の思想を展開したソクラテスやプラトンが、或いはゴッドやアッラーといった一神教の概念を用いて詩的な比喩表現を残したイエスやムハンムドが、ポストモダニストといえると思うのか。
 そのソーカル事件とポストモダン哲学の誤謬性とやらを同一視していた者がもっていた科学信徒としての愚かさは、単にその者一人でなく、理科教育を中心に受けてきた人々にかなり普くみられる傾向でもある。彼らは実証論文間のメタ分析に過度の信頼を置くが、感情知能を扱った社会の善美についての詩や物語とか、民俗学、倫理的な課題、当為自体の検討など人間生活にとってより現実的で重要な問題を全然学ぼうとしないのである。これは彼らの受けた教育が片寄ったものであって、自然学を超えた学について無知なままにされてきた為でもあるのだから、彼らがわずかであれ、総合的な教養学の機会があればその種の愚を避けられたであろう。