2019年2月1日

共通善、相対善、絶対善、最高善、最善及び善悪濃度論について

知識は房の様なもので、そこに属する認知の体系がある。賢愚はこの房との差で測られ、ある房にとって有意な価値観に適合する方がより賢いと見なされる。また房の間にはしばしば包含関係があり、2つ以上の房のいずれの中でも有意な価値観の中により賢い部分が見つかる。いいかえると房Aと房Bが包含関係にあって房Aが房Bを含む(A⊇B)様な場合、Bの中での賢さはAの中での賢さを兼ねていることがある。
 ところで道徳はある知識の房である。よってこの意味で、善悪とは賢愚の一種といえる。以下のことは悪についても同じだが、我々のいう共通善は、諸々の知識の房の包含関係の中で、より賢い部分を指している。一方で非共通善もあり、そこでは善は個別的である。また最高善と我々が呼んできたものは、全ての房群の中で最も多くの共通善を持っている部分を指していると考えられる。すなわちこれまでいわれるところの最高善は事実上は相対善であり、絶対善でない。ここで絶対善とは何かが問題になる。必ずしも共通善ではないため多くの人々から共感されないが、ある房がそれらを超えた善をもっている場合がありうるだろうか。各々の房は自身の価値観のなかで賢愚としての善悪を測るため自らを絶対化しがちになる。逆にいえばこれらの絶対化された善が排他性を伴うことを、一般に我々は絶対善と呼んでいる。なんらかの排他性を伴う善、つまり絶対善は、それ自体が独善とその房の外にある房からは見なされるのだ。これらについて悪としても同じことがいえ、絶対悪は狂信である。
 以上のことから我々が求めるべきなのは、全知識の中での最高善だといえる。それは最も普遍的な共通善を指しており、最も排他性の少ない善だともいえる。この種の善をみいだすには全世界の全知識、全能の認知が必要だから、実質的な最高善は当為としてしか措定できない。しかし我々は最善なら追求できる。我々が実現可能なのは、自身に到達できる最高善に最も近い最善さであり、それは想定される共通善の中でも最も善い部分、つまりそれらの房群に共通の価値観の中で道徳知として最も賢い部分だといえる。逆に最低悪について考えると、これはあらゆる共通悪の房に属し、それらの中でも最も邪悪な部分を指していることが分かる。それに最も近いのが最悪である。
 また善悪を濃度として考えると、それらは二分法や二元論ではない。よって仮に10分割すると善の濃度4割と濃度6割では後者の方がより善いことになる。善悪の濃度の細分化は無限にできる。また善悪の中ほどを濃度として凡と名づけることもできる。二元論や三元論は濃度論より詳細ではない。