2019年2月22日

科学は信仰ではなく永遠の疑義である

科学的な実証に基づいた何らかの見解、特に論文誌への寄稿者の意見を、そのまま右から左へ通俗化し流す人が大儲けしているのをみると、この種の偽科学者らの罪深さが占い師と本質的に変わらないのが分かる。彼らは反証的な批判精神をもっていないばかりか、新たに科学教の宗派をふやしている。
 科学(science、知ること、知)の本質的な効用は、既成の常識を疑い、より正しい真理へ常に権威の座を明け渡していく批判的思考にある。証拠が真理の担保でないのは明らかであり、単に事実を実験で検証する観点の一つを与えるだけである。
 ノーベル賞信仰の持ち主や通俗科学の信者らは、権威や確度を含むある意見を疑義せず他人に伝える態度をもっているただの追従者達というべきで、これらの人々の意見より正しい意見があると疑おうとしない限り、科学の効用を真に得ているとはいえない。
 科学者を信じるのは全く間違ったことだ。科学を信じるのはいうまでもない。これらは新たな邪教に過ぎず、常に多少あれ間違える。基礎科学に基づくあらゆる工学(technology)も同じだ。真理は永遠の疑義の中にのみ、専らの仮説としてしか得られない。それらも全て仮のものだから、真理は知りえない。