2019年2月9日

対資本原理主義について

一般大衆の中で認知され、しばしば人気を得ている人をよくみると、彼らの中の暗愚で卑しい要素が俗受けしているのが分かる。皇族や金持ちの卑賎さが、悉く民衆を歓喜させている。人は同類相憐れむので、商人は彼らと同じかそれ以上に利己的な人を好み親しむ。
 純粋芸術は商業的でない着地点を持たねばならない。私が「救い」と呼んでいたものの正体もそこにあると思う。資本主義は非人間的な宗教で、多くの愚者をほぼ完全に洗脳しているが、彼ら商人は経済弱者を搾取する一方で、少しも救わない。資本主義信者はいわばただの野蛮な動物だ。
 芸術は言いたいことをいう。そこに他の夾雑物は必要ない。他人がどう思うか、他人に受けるか、他人が喜ぶか、他人に買われるか、他人がカネを出してまでそれが欲しいか、株価収益率をあげるか(株主にとって下げるか)、内部収益率をあげるか、これらは私の仕事にとっては積極的に排除すべき対象だ。
 資本主義経済を信じその中で生計を立てている全商人達は、自分のみるかぎり完全に新興宗教に洗脳されている愚者でしかない。この邪教の禍々しさは天皇を筆頭とする(表面的には象徴と名乗る宗教的権威に偽装した)神道権力に匹敵し、多くの人間を奴隷化し資本家の立場で搾取し続けている。商人は搾取罪を正当化する為それを付加価値と呼び、持たざる者を収奪する。勿論全て利己の為、経済弱者である他人を犠牲にする目的しかない。これは悪意なのだが、商人はその悪意を資本主義信者の間で合法化している自己利益と同一視しているので、決して反省しない。だから彼らは貧者を虐げ恥じない。
「資本主義を信じさえすれば他人を奴隷化できる。持たざる者から収奪し放題になる。だからお前も金を儲けろ、他人を原価以上に搾取したら付加価値と名づけ自己正当化しろ。この信仰はお前を世界一の金持ちにする為だから永遠に競争し続ければ救われるのだ」資本主義教義の中身は貪欲。他にはない。
 ユダヤ教とイスラエルは米国政府を背骨に世界中を資本主義教で洗脳していこうとしている。この流れは高学歴の風儀と相対的に高IQな遺伝子のもとにあるユダヤ人の選民性にとって都合がいいのだ。アングロ・サクソンの一部、特に米英の利己的な一部の人はこの教義を採用し、彼らの仲間になることにした。
 天皇は自身の教祖兼皇帝権力が最大化されることを望み、敗戦後は米英とイスラエルの野望に妥協し保身をはかった。日本人らは象徴と偽装された天皇権力と資本主義の両方に洗脳を受けはじめた。さらに利己的な人はリバタリアンとなりシンガポールやドバイへ逃げて行った。日本国内には宗教に洗脳され易い衆愚が残った。彼らは天皇奴隷制と呼ぶべき国民全般への増税や、経済弱者の生存権弾圧を当然と思い、それを自己責任論と呼んだ。平成時代の末期に生きている私に分かっている現代史実はここまでだ。
 私がなんとか資本主義や神道の洗脳を自力で解けたのは幸運だったのだろう。他の商人や一般大衆にそれができているとは到底思えない。勿論、政府を構成している公務員や皇族にも。
 資本主義の邪教さを象徴的に表現する美術作品を、私が十分制作できてきたか。10年位前、コカコーラの空き缶をカッターナイフで破壊し、芋けんぴの入っていた生協の空き缶の中に、接着剤で留めた作品を作って、確か『対資本原理主義』と名づけ自分のホームページに掲示してきた。私は当時、十分に理論化した言葉をもっていなかったので彫刻でその様にしか表現できなかったのだが、誰も私の意図に気づかなかったので、今に至るまでその作品も私も完全に無視されてきている。だがそこで表示されていた理念は、資本主義教の悪意をのりこえようとする偶像破壊であったのだろう。侍が一刀両断する様コカコーラの空き缶を切り捨てるイメージが、私にその作品をつくらせたのだが、今寝床の横にあるタンスの上に埃をかぶってあるその作品は、多分すでに錆びてしまっているだろう。さび止めを塗っていなかったし、誰かが似た様式をすぐまねられるので、画像が残れば十分と思っていた。