私も絵を描いたり、美術を中心に創作活動を高校の頃から続けてきたんですが、今の私の意見では、芸術はある思想を表現する形であり、哲学は特に形にこだわらず思想を探求する活動をいうと思います。広義では芸術もある形の中で思想を探求するので、哲学(知恵の友愛)に入るかもしれません。
アリストテレスは形相(エイドス)という言い方で、プラトンのいうイデア(いわば理想)が物の形から離れて存在するわけではない、という考えを展開していました。したがって芸術作品はその形相を意味している時、思想のある表現形態といえるでしょう。一般に哲学書とされるものは散文文学の形相です。
もし形相論の立場をとると、哲学(知恵を友愛する事)は何らかの芸術から離れて探求できない、ということもできます。会話は対話術の、口頭での主張や講義は演説術の、著作は文章術の形相をとりますよね。このため哲学が幹、芸術が枝葉と糸崎氏が仰るのは、プラトン流のイデア論の立場ではないですか。
もう一つ思ったに、イマニュエル・カントは『純粋理性批判』865,866で「哲学は決して学べない。哲学史を学べるにすぎず、理性に関し精々、知恵を友愛する事を学べるだけ」といっています。これは芸術についてもいえて、芸術史は学べるが芸術作品の独創的な作り方は学べないわけです。
私の考えでは、哲学とこれまで呼ばれてきた活動は、自然哲学(今日の自然科学)も含め文章に著される限り散文文学の一種です。哲学という語の起源は知恵を友愛するというギリシア語で最初は対話術が主でしたが、その他の口語による思想表現も、芸術の一部です。つまり哲学と芸術は同じ活動の別名です。
最初に述べたこととあわせると、ごく大まかに哲学は内容を、芸術は形式を重視する一つの表現活動だといえます。形相論の立場から芸術と哲学が同じものであるからには、重要なのはその表現活動の質で、呼び方ではないのだろうと思います。
最初に述べた芸術は思想表現の形で、哲学は思想の探求活動を指すという定義を狭義とすると、一般にはこちらが使われていると思います。哲学が主に散文体の文学や口述で表現される対話・演説術であることを鑑み、形相論の立場をより広義のものとすると、2つの言葉の意味はよりはっきりすると思います。