2019年1月29日

匿名性について

自由人が匿名性を使う場合、それがある種の極端な善行(例えば大金の寄付や、人の命を救うという次元の無償の自己犠牲行為)に伴う他者からの無用な妬み、又は助けられなかった他者からの怨みを回避する為だった時を除いて、その誇りに一定の傷をつけるというのは大よそ真実だろう。衆愚やサイコパス、皇族の様な有名人、又ある種の成金などがこれと正反対の蛮行、即ち悪行に匿名を使うか、まれにする偽善行為(一見して善行に見えるが目的が利己心にある行為)で大仰に自己宣伝する場面を見るにつけ、確かに自由な状態での名乗りには重要な意味がある。
 通常の善行、つまり特に他者からの注意を引く事もない中庸程度の善行については、匿名が意味を持つとはいえない。したがって匿名の人物はその行いが極端な善行である場合を除き自由を濫用しているのであり、通常の場面で個人特定されるのを防ぐ様な事、いいかえれば名を隠さねばならない様な事は誰であれするべきではないのだから、実名の掲示が不可能である場合以外では基本的に実名を公開しておくべきだろう。
 一方誰であれ私事という領域があり、特に性にまつわる場面で全てを公衆の目に触れさせるのが品位の面でふさわしいとは考えられていないし、実際に犯罪化されている(公然猥褻罪等)。公共に影響を与え、しかもそれが私事に属するものでなければ、まず実名性やそれに類した個人特定可能性が有徳といえるのだろう。
 偽名・筆名などニックネームが推奨されているSNSは基本的にその規則や文化に合わせるべきではあるだろうが、そもそも半匿名性を好んで使う人々は多少ともあれ名を知られたら困るような悪行をする目的でそうしているのであり、その集まりが極端な善行のみで満たされている様なSNSがあった場合を除いて余り立派な参加先とはいえないだろう。