2019年1月31日

自制と批評の公害制動機能

自分の過ちを制してくれるAIが我々には最も役立つ。この自制という機能を我々はしばしば理性と呼んでいる。自分の理性をその中に含まれていないより正しい観点から批判してくれるAIが我々には必要なのだが、今のところ我々はそれを持っていない。この自制という機能は部分的に外部化されており、それが社会なのだ。いわゆる制裁が意味するところや、それ以前には注意や批評がある人の過ちを社会的有害性に対して制限している。
 我々の中で虚栄心が強い人ほど自制心が少ないとすれば、それは他者による批判の内に、自らの理性より正しい意見がある可能性を認められないからなのだろう。又これの逆が孔子の言う「徳孤ならず必ず隣あり」として我々が知っているものの正体なのだろう。つまり虚栄心が弱い人、謙虚な心をもっている人ほど、誤りを制してくれる人からの忠告を受け入れやすい。自制補助AIが足りない現状、社会の中で誰かが実際に大きく過つ以前に制動装置としての互助組織をもつのは賢明なことだ。言論の自由の最も大きな公益の一つが、批判や批評と呼ばれる機能にあるのは以上で明らかだろう。
 勿論なかにはそれ自体が誤りである的外れな批判批評もあるわけで、名誉毀損罪や侮辱罪という法規定は他者への悪意や私怨による単なる誹謗を部分的に制限している。だが公益を図るために行われた批評において、この制動機能を自ら無化するのは後に大きな災厄をもたらすというべきだろう。問題は、ある人の虚栄心が大きいほど、その人自身がこの制動機能を無化してしまいがちになるということだ(標本母数の少なさから統計的な意味は為さないにせよ、私は少なくとも2人以上の、哲学者とか作家と称する人々が、私による真摯な忠告を聴くや否や発狂したようにその言葉を遮断し、のち、何ら反省の色なく自滅への道を辿って行ったのを知っている)。そのうえ一般市民にたやすく訴訟手続きがとれないほど名誉毀損・侮辱罪の訴え方は手間どるので、私怨や悪意からの誹謗が国内には蔓延しており、本来は善意からの親切でしかない批評的制動機能をますます分かりづらくしている。だから少なくとも自分だけは、この機能を理解しておいて、他人の批評の中でも自らの信念を反証する類の、最も耳に痛いものの中に、単なる誹謗ではない重要な自己反省の契機が含まれていないか殊更注意深くなる必要がある。むしろ、我々は自己の信念を木っ端微塵に破壊する様なありとあらゆる前衛的事象に新奇性選好をもっている方が、少しなりとも常識を信じるより、知性的存在としてずっとましなくらいだ。
 必要なほど受け入れられづらいものが忠告だ、といった意味の警句があった様に思うが、これはダニング・クルーガー効果と全く同じ意味で、無知なほど陥り易い自己過信についていえる。過ちて改めざるを過ちといい、過ちを改めるに憚る事なかれ。