人類の中には、利己・他害的な習癖を完全に身につけている人、つまり悪人がいる。また利他・しばしば自己犠牲的な癖をもつ善人がいる。これらの習慣の強度が激しいほど、その人は性悪、又は性善的である。また癖の強度においてこれらの中間にいる人もいる。
他方、サイコパスと呼ばれる人達がいる。精神医学の中で知られているよう、この種類の人々は良識、良心と呼ばれる善悪を判定する能力がもともとなく、人生全体の中で倫理全般が盲点となっている。彼らが第三者の目に倫理的に見えるよう偽装する時は、それが利己の役に立つ場合だけである。彼らは半匿名性が確保される場では極めて悪質な振る舞い、利己・他害的なふるまいをくり返し、その極悪さは上述の悪人をしばしば超えている。
死刑制度が悪人を裁く時、その刑罰対象は彼らの遺伝的・後天的な他害習慣の強度に向けられている。そしてサイコパスの一部が具体的犯罪によって裁かれる時、この習慣に対する遺伝的強度の方がより重要な刑罰対象となる。死刑を違法化した人々は、犯人の他害性が後天的習慣、つまり彼らをとりまく環境の影響によっていると多少ともあれ考えているといえる。また慈愛という観点から全ての悪人らを根底的に許すという目的で、死刑廃止論が正当性を主張している。これらを前提として私達は死刑制度に対して次の2つのことがいえる。
1つはこの刑罰が遺伝的な性悪さをもつ人(他人の気持ちを思いやる能力が脳の遺伝的に極端に低く、他害性に極めて傾き易い人)や、サイコパスといった特定の害他的遺伝子を淘汰する様に機能しているということだ。もう1つは、一般的な被害者遺族の心理的保障として、これらの遺伝子の淘汰が他害的な人々への同害報復になりうるということだ。我々が終身刑によって、程度あれ遺伝的に他害的な人を一般社会から隔離し犯人の自由を制限するのは、今日、最低限度の刑罰として疑われていない。つまり、死刑廃止論の焦点は、遺伝的に他害的な人々、生まれつき他人の気持ちを思いやりえない脳に対する同情の余地があるかどうかによっているのだ。性悪の脳とサイコパスの脳の違いや、彼らが遺伝的にどれだけ他人を思いやれないのかについてより正確な遺伝子的検査ができるようになってはじめて、情状酌量の余地としての終身刑の意義が問われうる。
性悪は悪意を含み、サイコパスはもともと善悪の認知が利己心を除きできない事によって、他害的犯罪を行う。いいかえれば、性悪にも思いやりの能力が欠如しているという遺伝的な他害性の程度があるし、サイコパスにも恐らくその良心に関する盲点さの程度があるだろう。こうして、死刑廃止論における減刑性の質は遺伝学的・精神医学的・脳科学的な遺伝されうる良識の判断力が計測できてこそ、科学上の根拠を持つようになる。