2019年1月28日

哲学者の責任と個人特定について

匿名は卑怯だという一般論は、高等遊民や哲学者にとっても恐らくいえるかもしれない、ということです。なぜなら発言の責任をとらなくて済むからです。責任をとるつもりでいても匿名なら逃げられるし、場合によっては発言の内容を一貫しなくてもいいからです(別アカウントを使った二重基準の発言等)。
 したがって糸崎さんがはじめに直感的(ご当人は感情的だったと申されていたようでしたが)に仰ったとおり、個人特定が可能で、ほぼ無限に責任が追及されるような条件下を進んでつくってから、哲学者は自身の見解を述べるべきなのかもしれないですね(なお私はそうは思ってないが)、ということです。
 なぜなら、それは誇り高い貴族の中でも或る意味最高の名義ともいえる哲学者という存在が、ソクラテスという偉大な先人をもっていて、彼みたいに自分の主張や生き方を通じて矢面に立つ貴族の義務を進んで果たしていてこそ与えられた尊称が哲学者というものだからでしょ(糸崎氏のはじめの趣旨では)。
 因みに、私個人は匿名・偽名・筆名・実名・顔出し・顔隠しだろうとなんだろうと哲学は哲学だと思うし、貴族の義務を果たそうと果たすまいと哲学者も高等遊民もいるだろうと思うので、糸崎氏のはじめの立場には全然立っていないが。ただ彼のはじめの主張の一部が、確かに正しいかもしれないと思います。