ハイアートがただの娯楽産業だったとして、知識人に興味深い娯楽が情報として安価、もしくはただだったら、見向きもしなくなるとは誰も思いもしなかった。資本主義信者ら(あるいはそれすら意識していない市場順応的な人)が信じる価値は、信用貨幣での交換価値に過ぎなかった。話題になるのは落札額だけという有様なので、今日のハイアートは実際のところユーチューブの俗受け動画と同じ土俵で、大衆受け度でしか観られても、理解されてもいない。その上この傾向はますます強化されていて、俗受けに最適化した漫画、もしくはその象徴的模造物が主要美術にされている。
俗物根性に訴える高尚な芸術は、日本的権威づけの構図の中で更に空虚になっている。まるで三流文化の様に。元々その様な作品には意味がなかったのだ。