2018年11月26日

経営学

貧しさと尊卑、豊かさと尊卑には有意な相関がない。いいかえれば、貧富と尊卑は異なる人的価値である。これらに加え、賢愚一般もこれらの価値との間に有意な相関がない。
 学歴主義者はこれらの価値を学閥、非一律条件下の教育課程を通じ偏差値入試を経た前提、学位などで単一指標によって同時的に測れると考えているが、それは元々誤った前提に立って、因果の相関性を誤認しているからである。例えば貧富は商才に(厳密にいえば相続や資産の運用益を含むので、一代の資本利益率といいかえるべきだろう)、尊卑は徳性に、賢愚は知性に相関しているが、これらの間には何らかの副次的要素による擬似相関しかない。つまりロンダリングを除く学歴で測りうる特定知識の有(しかし学歴のない者が同知識を有している事を排除できない)は、その学位や試験で問われる知識の有しか示さない。マイケル・スペンスのシグナリング理論は特定又は一般的商才の検査を擬似相関関係しかない学歴で外注する誤った費用削減を合理化しているだけなので、根本的に認識の錯誤によっており、学歴を前提とせず商才自体を問う特定の実施検査(OJTやインターン等)に比べ、成果をあげられない。
 我々が富んでいて、尊く、賢い様な人物を見出す事は、傾向的にさえ難しい。しかし、貧しく、卑しく、愚かな人物は、一般大衆をみれば容易に見出される。いいかえれば、富や、尊さや、賢さは希少価値である。同様に、商才はそれ自体が希少価値であり、既存の富(資本利益率を除く)、尊さ、賢さと相関している訳ではない。一般的に愚かと思われる人物ですら、その他の人より商才を持っている事が大いにあるのは、商才に関する知能は一般的な認知能力と異なるからだ。また富裕な生まれの者に商才が欠けていれば、資本利益率という意味で富は流出していく。