2018年11月26日

文化圏と信仰

九州地方からSNS上でコミュニケーションをはかっている人々に対して、野蛮だという印象をもつことが私個人は多かった。特に礼儀作法がないか、行動を絶対化し理論を軽視する人々が殆どなので、知的・倫理的な面で幼稚であるか野卑であると感じた。ある長崎の人や或る福岡の人も、ほぼ同様に九州地方の地元人らについて評していた事もあった。
 この経験的事実を確証偏見をできるだけ避けながら検証すると、そこで接した九州地方の人々のもっている文化慣習上の傾向は、少なくとも私が首都圏や東北圏で経験してきた礼儀や倫理、知性に関する評価機軸とは大きく異なっているのかもしれない。したがって九州地方の野蛮さと感じる言動の傾向とは、異なる文化圏に属する人々に特有の慣習がある、と捉える方がふさわしい分析だといえる。
 大分出身の福沢諭吉の『脱亜論』や、九州に接する山口県出身の吉田松陰の『幽囚録』は人種差別や植民地侵略を説く点で、今日の目からも野蛮さの一種とみなせる。構造主義の観点から、これらの考えが九州文化圏に与えている影響がもしあるとするなら、彼らの行動様式を背後から縛り付けている信仰とは、当地で敬われている類の宗教家、思想家、哲学者、倫理観念に根拠をもっているのかもしれない。
 或る福岡の人は、弱肉強食を正義と混同していた。この様なマキャベリズムが当地でやくざの多さ等に現れているとしても、その背景には明治維新時の反政府テロ活動が政府の乗っ取りとして成功体験と捉えられている歴史解釈に問題があるといえるだろう。