2018年4月23日

絵画論

絵画表現の現実性を否定する事は、全ての絵画史にとって第一の目的だ。絵画は抽象的な時だけ絵画性を示す。我々が絵画に感動するのはそれが絵画的だからであり、現実性と類似しているからでは全然ない。
 絵画鑑賞の素人達は絵が現実そっくりだ、という写実性を絵画性と誤解する。アリストテレスも『詩学』で同じ過ちをしている。これらは芸術が芸術自体を示す事にしか目的がないのを、模倣目的と誤解したに過ぎない。音楽が現実を模倣していないのは明らかであるよう、絵も模倣性は元々目的からずれている。写生や模写が写真に近接するほど巧さと感じる人は、写実性そのものが比喩であるとしらない。素材が現実を抽出し再現しているかの様にみえるのは、パレイドリアによる錯視の拡張にすぎず、もしこれが絵の目的なら写真の記録機能と変わらない事になってしまう。
 絵が抽象的な時のみ絵画性を示す、と私は言った。問題はこの抽象化の様式なのだ。
 モンドリアンやポロック、クーニング、リヒターが非対象芸術の例をそれぞれの様式で提示したとき、彼らは絵の抽象美を問うたのであり、模倣性を主題化したのではない。カントは概念の域へ没入できるので絵画は造形芸術で最も優れていると『判断力批判』で述べた。基本的な純粋美術分類は、それぞれ独自の価値があるので、美術様式間に格付けをするこの意見は半分間違えているが、少なくとも概念を表す点に絵画性を定義しているところは正しい。だが、絵画性は主題によって言語で定義される概念が目的ではない。我々は古代人の洞窟壁画が言語の主題なしに現前するのを知っている。同様に、絵は絵画性そのものが目的なのだ。絵の概念は、抽象美の様式学であり、この主題のみを常に探求してきた。画家の中に格差があるのは、この主題を理解し更新する才能に違いがあるからだ。そして金銭的価値や賞による権威づけは、この様式学の質と即時に厳密な相関を伴わない。評価者が様式学を紡ぐ時のみ、先駆的画家の意図が再構築されるからだ。