2018年3月3日

生業の貴賎について

より卑小な存在はより獣的な生業に住む。本能に忠実な生業ほど、軽蔑される。職業に貴賎なしとは、単なる町人の自己正当化である。この戯言は無業者を差別し、違法労働や過労を含む労働階級を合理化し、資本主義体制に順応して満足したがる。より賎しい生業はより直接的で本能に近いのであり、それどころか、一般に職業は賎しい。
 人類の社会で自ら金を儲ける事、更に直接的な手段で商う事、必需に基づき実用的な事、わけても本能に根ざした生業な事などは、必ずや多少あれ軽蔑される。いいかえれば、無業無職であり、非実用的で理性に基づいて暮らしている人が、ますます神聖であるほど貴いと見なされる。
 資本家、労働者、商人と呼べる、日夜金儲けが主活動の人々は嘗ての町人階級、特に商人の後継であり、これらの人々は自らの生業を誇るため町人道として諸々の営利を正当化したがる。だがまさに商いがうまくいき、蓄財によって利己性を伴っていればいるだけ資本の独占として他人には有害なので、商人衆は軽蔑を受ける。そして産業が第三次に片寄った地域では、商人階級の間で貴賎が意図なしに見分けられる。
 人類が本能から出発し理性に向かって進歩してきた経緯が、これらの価値基準の原因だろう。アリストテレスが哲学を生業にした自由人、つまり無業者や無職を最上視し、ゴータマが乞食を理想化し職業詩人や説教師としての扱いさえ拒否したのは、生業への本質的離接が自由を意味すると示している。純粋芸術に対する商業芸術への軽蔑も、それが自由でない生業だと見なされるからである。ここでいう自由は、何らかの目的に従属しない程度という意味で、数学や形而下学、いわゆる科学の一切は目的自体を定義する哲学の下位にある為、それらが不自由な学である程度に応じて品位が決定される。
 人類の社会で社交すれば、人間には貴賎が確かにあり、その程度は上述の規則に基づいているのに気づくだろう。職業差別を禁じる法は人権に基づいてそれらの間に品位の差を認めないよう促す。故に、生業の貴賎は超法規的な無意識によっている事になる。たとえば低級な商人階級の中では蓄財度が品位に置き換わっており、この考えは職業間に所得差別をしたがるが、上述のよう商人自体が直接的な営利活動である為にやはり低品位な生業に過ぎない。理性の目的は利他性の完成なので、非営利的生業の一切より返礼を前提にしている商業の位は劣っている。