2018年2月17日

差別と偏見の解析

人種、民族、国民といった集合概念は、文化的慣習や言行傾向の個人単位に分解されるべきであり、地域性といった中間集合も根本的に単なる偏見であって、何らかの集合概念が個人より先立つとき確証偏見による差別を生む。この差別は科学的偽であったり、道徳的悪だったりするが、より究極的には差別意識をもち誰かを偏見でみる当人を最も誤らせる。利己的な目的をもち行われる差別は、科学的に真偽いずれかでありつつ道徳的悪である場合に属するが、真かつ悪のときは悪意や害意、偽かつ悪のときは冤罪やぬれぎぬである。その他の目的をもった差別は、真かつ善か、偽かつ善かのどちらかだが、前者は選好やえりごのみであり後者は贔屓や擁護である。しかしこれらの好意的差別は、一般に比較対象への悪意の反動なので、多かれ少なかれ有害である。即ち差別の一切は反社会的であり、しかも偏見をもつ者自身のみならず、差別される側にも害を与える。従って差別意識をもつ人は、単にそのひと個人が自己の偏見によって損害をこうむるのみならずその意識の故に他者を誤らせるか、直接的乃至間接的に対人関係を悪化させる。
 一方、個人単位での能力、学歴、容姿など何らかの生得か後天的特徴などによる差別も、仮にその特徴が真であったとしても有害である。なぜなら偏見に基づかない認識においては、その個人が集合概念に還元されえないからであり、いわば特徴に個人が先立つからだ。個人が正しく認知されるには、実験や実践によるしかない。
 集合概念による差別は著しく錯誤を生むがゆえに極めて有害だが、個人の前に置いた特徴による偏見も同等以上に有害であり、これらは差別や偏見によって事業を行う組織や人を致命的に失敗させるし、その埋没費用は個人に実験や実践をはかる費用より遥かにかさむ。しかし、これは文化的知識や何らかの集団の慣習がないことを意味しないのに注意が要る。仮に誰かが或る事象に典型性を示したとしても、単に、個人という単位は決して平均化されたり、何らかの前提的中央値で判断されるべきではないのだ。統計は差別や偏見について判断を最も誤らせる。