画家は、他者の好みに合わせようとする限り、すべからく苦しむ結果になる。この事情は、漫画家やイラストレーターといった商業美術の担い手達が、読者の好奇に応じる形に表現を限局させられる構図と帰一で、純粋美術の担い手にあっては、独創性を表現する為に大衆の趣味と最も相反する事が珍しくない。そして商業作家達に純粋美術家になる事は決してできない。この2つの流派は、その作者が中間芸術を志向する時にあっても、絶対に混じりあう事がない。結局のところ、大衆性とは非独創性の言いかえだからで、純粋美術として我々がみいだした傾向は、非典型的で例外的な個性が安住の地を自らの内面表現への耽溺に見つけ出そうとするときに、流行の伝統表現からの逸脱の契機が同時代にあって前衛性と解釈されるよう俗物趣味の愛好家達からえりごのまれた結果なのである。全ての傑出した個性は、彼ら独自の趣味嗜好にあって同時代の大衆と大いに異ならざるを得ないが、これら全ての探索的ばらつきは、表現傾向の同時代的或いは同文化圏における中央値から離れたものが無数にあり、その中で或る傾向が何らかの理由で中央値的体系との理論的整合性を確立した時、投機的な俗物が美術に造詣のある教養人としてこの作風を前衛性と喧伝する中で、その流儀の新流行度に応じた明らかに恣意的な美術史を描こうとする。日夜真剣に最美の表現を探求する純粋美術家らにとって心外な事に、彼らの作品についていずれかの時代に於ける評価がこの種の俗物に依存していて、仮初にも大学人の手によるのではない事を知るのは、有用である。なぜなら、この近代主義の傾向は、学園主義と相反するからだ。
カントが『判断力批判』で、芸術は学習しえないと述べた意味は、この近代主義の本質に立脚している。型の修得後にそれを脱する、という守破離と言われる折衷的態度すら、単なる伝統芸能としての後衛性、よくて中衛性の枠内での出来事だろう。潮流を革新している作品は、異なる考え方や価値観、根本から違った美意識による段違いなものだろうし、そうであるからには過去の傾向との大きな差の為に、過去との参照による学習的な評価基軸によっては永久に理解も好評もしえないからだ。辛うじて、優れた批評或いは早期追従者が何らかの意図で理論的整合性の橋を架け渡した際に、特定傾向の前衛性が中衛的な流行をみせる結果になる。
いかなる個性であれ、純粋美術は一定の型式において容認する可溶性がある。だから大衆という凡庸な平均集団に比して、英知や聖徳においても、逆に愚鈍や悪徳においても非典型的な人物が、芸術表現によって自己実現する事は有益である。他方で、より凡庸に近い人々が副文化といわれる商業美術や大衆芸能のみを解したり、大学人らがこの種の流行のみを後追いし伝統と定義していくのは、単なる必然ではあっても、決して立派な態度でも主文化的でもない。寧ろ、純粋美術の社会的意義は、美意識の同時代的または類似文化集団的な中央値に回収されない傾向を仮想的に展開される事による、自己啓蒙にある。芸術弾圧の全てが有害なのは、この鑑賞を通じた実質の目覚めやかつて知らなかった何らかの意識への気づきの機会を失うからであり、純粋芸術の公共的意義といえるのは、しばしば批評や論争を呼ぶ理解の多義性により自分達の物の見方や平凡さに反省や改善の機会を与えるからである。従って、経済的価値づけとしての流行度、需給差のみに芸術作品の価値や意義を定義する人は、単に商業芸術という一定の範囲にある作品のみを一定の観点から評定しているに過ぎず、純粋芸術をはじめ、別の芸術についての評価基準を少しも要約しえていない。それは権威主義者や大学人が政治権力者や作者の卒業乃至所属大学の格式等による箔付けのみを芸術の価値基準とすり替えている等、様々な多義的評価を技へ随意に付与し得るのと相似で、実際のところ、純粋芸術という観点も、それが作品に対する評価である限り誰かの人為的痕跡を通じた汎神論的な物質崇拝の形に過ぎないが、価値を程度において定義しているのなら、単に人間愛を偏愛化するに過ぎないのだ。いいかえれば純粋芸術的な究極の価値づけとは、全作為に対する慈愛でしかないが、脳が外界へ道具を通じ現実に加える何らかの改変の一切がその脳の潜在なり顕在なりの目的追求と見なせる為に、社会における視聴覚的多様性を拡張し、我々の社会的体験をより公共的な功利性へと導くであろう。