2017年9月21日

脱資本論

商行為は主客や労使関係上に搾取を生じさせる。デリダが返礼の省略としてこの搾取を合理化したのは、単なる虚偽であり、ユダヤ教徒の生活を言い訳する為の悪意ですらあった。客や労働者は、経営者や使用者、株主、更にその商行為から徴税する皇族、政治家、挙げ句は被福祉者らに感謝して支払いをし、雇用契約上の労働対価を得るとは限らない。むしろ労使関係や、主客(店と客)、徴税者と被徴税者の力関係の非対称さは、既に比較富裕な側が更に比較貧困な側から貪れる様になっているので、商行為は恨みの原因でもある。徴税者が福祉行為を行ったとしても己の分は抜き取る限り、商行為はそれが営利である限り搾取という罪を含むものだから、デリダの言っている事は基本的に嘘であり、現実には恨みの連鎖を偽善のヴェールで覆い隠しているのが、金銭取引における感謝という慣習である。もし感謝が自然に生じる商行為があったなら、富裕な側が貧困な側に対して、富裕な側に不利あるいは赤字となる取引を、富裕な側から提案し、それを貧困な側が理解していて、一種の慈善行為にあずかっていると自覚できた上での取引に限られる。すなわち、貧富の格差を縮める種類の商行為は感謝に値する。この様な取引は営利的ではない。だから市場競争の中では、経営の失敗と認知される筈の行いである。いいかえれば、この種の富者が負けた取引は、出血大サービス等と銘打たれている事がありそれが単なる在庫処分という利己を含まぬ真実であるのなら、慈善行為と見なされて然るべきものであるが、その経営者が自己破産を目指しているのでない限り、市場競争下では基本的にありえない。もしその種の慈善行為を行うプレイヤーが市場に紛れ込んでも、早晩敗退し淘汰され消える。
 つまり、商行為は悪であり、慈善行為のみが善である。慈善行為の内容は、金銭を含め、自らの意思で対価を要求しない寄付である。利己を図る比重が常に利他を図る比重より重い状態のふるまいが商行為なので、そこには何らかの搾取が自己中心に介在するが、この悪意は貧富の格差が大きい者の取引において、富者の側に最大になる。いわゆる暴利である。
 もはや市場がはびこった先進国で、善意の人が生き残る余地は殆どない。その中でNPOやある種の宗教者も、一部の篤志と同様、営利なしに暮らす努力を続けているが。それどころか、先進国の商人や皇族含む王侯、政治家ですら国内で貧者を貪りながら、更により貧しい途上国からさえ搾取を続けようと躍起になっている。資本主義はこの意味で悪魔の教義である。その信念をもつ人が大多数の社会は、単に弱い立場にある比較貧者を、強い立場にある比較富者が貪るだけの弱肉強食の業でしかない。そこは地獄に最も似ている。東京や横浜、京都、大阪、神戸、名古屋、福岡、仙台、札幌といった大都市が醜悪なのは、この教義を多かれ少なかれ狂信する商人による悪業の集積の結果であるからだ。
 美しい町は、これらの商業都市とは正反対である。そこは慈善行為で営まれ、搾取罪は厳に禁じられ、時に罰され、寄付のみによって動いていく。この世に天国がありうるならそこは商人の絶滅した社会であり、慈善家のみでできている、利他が人々により最大限実践されている地域である。勧善懲悪の行われる社会では道徳が利益より優先される。そしてこの場所では、完全に無償での人助けが、それを行う人が貧しければ貧しいほど最上の誉れを以て称賛されていて、富者が営利活動をすることは完全に犯罪だとして徹底的に侮蔑され、監獄に入れられることすらある。清貧が理想視され、その暮らしに憧れて大勢の若者が集まってきて日々善行に励み、搾取をお互いに重々戒めあい、常々持たざる中からも如何に人の為に寄付をなしうるか夢中になって試行錯誤し続けている。
 資本主義はこの様な慈善主義の社会の対極に位置し、人心の荒廃した最悪状態の現状認識なのだと理解されねばならない。我々が目指し、到達しなければならない天国とあるまじき理想状態は、営利を逃れ、搾取を否定し、比較富裕すら侮蔑し、ひたすら善意と寄付によって清貧に至ろうと努力し、貧富の格差を日々縮めていくべく生活の途をきりひらく、その様な人間のあり方である。