2017年8月18日

無為について

他人の幸福が利他以外だった場合、それは自分の利己心にとっての苦痛を意味する。つまり他人の幸福は自分の不幸なのである。もし他人の幸福を祝っている人々がいたら、それが自らの利己性にとって有利か、他人への慈善心という信仰の形によって自己満足を得るよう自己洗脳済みか、どちらかである。妬みは苦痛であるから、この逆の蔑みは或る種の快楽かもしれない。清貧を目指す生き方や禁欲主義は、他人がその人の厳しい自己陶冶へ共感できる範囲で、妬みをもつことなしに賞賛や尊敬の念を禁じ得ない時に、目的としての道徳性を発揮する。この意味で清貧は成金より上位の段階にある精神的な贅沢なのだということができる。道徳とは究極の贅沢だ。
 資本主義は、或いは資本家は貧困層をおいつめて自殺させようと妬ませ、労働や消費に誘惑する。無知な労働者は更に、この悪意へ自ら依存する。こうして利益に魅せられた起業家が現れ金儲けしながら、貧困層を過労へと惹起するのであり、この作用の全体は資本家の信奉する彼ら資本家自身の為の金儲け体制へ合致するよう陰に陽に手引きされる。資本主義(放任的な市場経済)と民主主義(多数政)の結合は次の結果をもたらす。即ち民衆、労働者への洗脳を資本家の後援した企業や政府が進め、結局、貧者を社会的に迫害や排除する方へこの資本民主主義(いわゆる自由主義)の狂信者らは同調しあうのである。往々にして最悪の人間達の呼称としての衆愚とは、一切の良心や良識を持たず、この種の弱者と見た相手を迫害するべく同調を目的化している無知な集団に当たる名義だろう。
 またそうでなくとも単に民衆の多数派としての貧者にとって、この自由主義の社会は、反功利主義的な最大多数の最大不幸を意味するのみならず、想定できる限り最悪の世界でもある。なぜならこの社会では妬ませること、つまり他人を成金自慢や顕示消費で不幸にさせる事が唯一の有効な仕事になるからだ。利己的な、意地悪な他人を初期状態で蔑む差別的性格や虚栄心の固まりである天皇家の様な堕落した王族或いは退廃した民族宗教家にとって、この弱肉強食を心身両面からの虐待、いじめ、嫌がらせや共謀罪含む冤罪等の悪意ある世間の空気、不正起訴や魔女裁判でほしいがままにできる状態は理想的かもしれない。だが彼らとて清貧な人、つまり存続されてきた彼ら世襲成金の権化より高潔な人徳者に対して、ある種の妬みを感じる。それは利己的な成金が決して得られない種類の敬意や同情、同感の念を清貧な人が受けているからだし、たとえ利己的な人がこの徳性を認めず更に物質面で贅沢する事で自己満足や俗受けを図ったとしても、心理的には同じなのだ。
 顕示閑暇の究極が無為に過ごす事であり、それはとりもなおさず、どんな装飾も否定し、完全に帰無的な場合に最高の段階を達する。どんな有用性も持たず、いかなる快楽追求とも倒錯からも離れて、何もせず何も求めず、どんな成果も出さず、ひたすら経済合理性から離れて過ごす事。最上の生とはこの無為の中に見いだされる。それは能力差から来る配分的正義を否定する態度であり、自ら最も弱く最も不利な立場の道を選ぶ事につながる。