2017年8月12日

幸福論

真理を探求せよ。利益を追求するのは俗人だ。現世の俗人にかかづらうな。真理のみを友とせよ。
 現世利益を幸福と名付けている俗人共は皆、死んだ方がいい様な悪党だ。やつらはひたすら金儲けし繁殖したがる底辺で、名誉を逐う俗物、下賎な商人、権力亡者、その他利己主義者の愚物悪人に違いなく、関わるだけの価値は何らない。これを思えば米国のシリコンバレー文化も、単なる株式資本主義の浮利を追う性悪共の醜い我の張り合い以外なにものでもない。
 人として重要なのは利益以外の世界だけだ。真理は利益となんの関係もない。本来この領域は哲学と共に、わけても自然哲学(今日の自然科学)を含む根源(ギリシア哲学に於けるアルケー)の探求から始まったのであり、やがて近代芸術の中でも自己目的性がみいだされる様になった。
 ケインズが所謂『一般理論』でいう流動資本の為だけに株式資本主義が存在し、勤労を含む労働資本主義は自己奴隷化による労働者相互の同調圧力たる衆愚性を伴う為に失敗している。起業精神は開拓精神と重ねられ米国人の中に内在していた清教徒思想のカルヴィニズムと一体化した。この為、ヴェーバー『プロテスタンティズムと資本主義の精神』でいう利潤追求の目的化は、利己的な商業行為を、わけてもinnovationを旗印とした持続的搾取ゲームを米国追従者らへ是認させた。このうちにあって利益探求とは世界史の中で成金の役割を果たさせるにすぎず、イスラム教の喜捨、キリスト教の寄付、仏教の托鉢などの調整側に属する倫理が今日にあっても善良なのである。配分的な善としての商業は、ただの世界の利己的一幕でしかないので、そこで競争して優位と思っている人々(例えば東京都民だとか横浜市民、或いは京阪神、名古屋、福岡、仙台の人間の様な商業都市民)は非地位財を次々失う結果になり、確実に不幸になっていく。地位財と非地位財は、前者が後者の否定により取得できる競争的な成果物に他ならず、トレードオフの関係にあるからだ。
 幸福(とりわけその最上にある観想)と忙殺は正反対のものなので、もし忙殺によって得た金銭を贅沢による顕示消費に回してもそこで失われた非地位財の不足を補う事はできない。この意味で、利益追求を是とした米国追従者、或いは日本では東横(東京と横浜)や関西、名古屋の民族を始めとした商業主義者らは自ら不幸を買い、むなしい浪費の権利とひきかえに幸福な人々を罵倒したり侮辱して合理化している惨めな存在に他ならないのだ。
 貧困は不幸でない。有り余る富が不幸なのだ。だからテレビを代表とする消費を煽る宣伝媒体に接触する人ほど遠からず不幸を得る。それは有り余る富を前提にした生活様式へ視聴者を誘惑するからだ。宣伝手法は日々開発されるので、この誘惑に抗える人など殆どいない。幸福の方が忙殺より望ましい獲得物なのは明らかだから、尤も主体性の欠落した奴隷精神の愚物にとってはそうではないにせよ、人として望ましい選択は、金銭獲得や浪費に対する誘引、もしくは都市に目を背けそこから発信される宣伝媒体やら贅沢自慢にも為しうる限り情報を遮断し、日本でいえば商業搾取による悪徳の権化としての天皇家を反面教師とし、閑雅のくらしに入る事に他ならない。
 非地位財の核心にあるのは無償の利他性による自己充足なのであり、これは奉仕の希少性を減らすか、需給関係を飽和させるため、非商業的に成り易い。即ち幸福を得るのに十分なのは商業的利己性の放棄に等しい態度や習慣なのであり、イエス、ムハンムド、ゴータマ、或いは孔子が述べていた類いの慈善への勧めは最小の地位財と最大の非地位財が最高幸福をもたらすという経験からきた知恵だったのだ。