2017年6月2日

形而上学の概念について

貴い人に賎しい人の気持ちは伺い知れない。賎しい人は貴い人の考えを理解できない。貴賎の両人は相互理解ができず、意思疎通も基本的にできない。一部の芸術作品が貴賎の誤解を解こうと試みたが、結果は惨澹たるものだった。大乗仏教が教義の変更を迫られた事は、尊卑が別系統と示す。
 卑しい人達の倫理は愚昧である。だから卑しい仲間とくらせば、彼らの信じる善さが明らかに質の異なるものだと分かるだろう。趣味の悪さが下卑た人達の快適なのである。
 道徳とは卑しい人の理解ではない。民主的だとか多数派的だとかは、天皇の意思だとか教皇の教えだとか同様、なんの合倫理性も持たないか、倫理の中身と関係がない。多数決は便宜的意思決定の北アメリカ先住人における実用的方法だっただけで、倫理道徳と少しの関係もない。
 貴族性、尊さ、道徳性、倫理性、これらの集合は、形而上学の理解が十分ある人達にとってのみ、比較検討や考察の対象になる概念であり、何らかの形而下学、数学ならびに自然社会両科学によっては把握するのも難しい。しかも、形而上学の議論は批判的弁証法を基礎とするものだから、その他の単純な実証性とは異なる秩序を持ち、いずれの結論も決定しえない。だから貴い人の考えはより複雑、複合的だとみなしうるのであって、そうであるからには、善意あるいは善解釈の前で何事も断定的に述べ得ないほど様々な立場がありうるとしっている限りにおいて、道徳性の基礎が確立しているとみなせるのである。