2016年8月24日

経済学

人は農業国では善良になり、工業国では勤勉になり、商業国では不幸になる。国は農工商の段階で発展し滅亡に至る。これらは国民の行う第一次、第二次、第三次の産業比率で理解できる。商業化が進んだ国は民同士が競争的、即ち共食い的な相互害他をはじめ、滅び去る。滅びた国と対照的に、農業力の強まった国は土地生産性、人口支持力が高いままであり、民の資質は食料の過剰生産分を慈恵しうるだけ利他的になる。またこの次に暮らしに余裕を持つに至った民による技術革新によって工業化が進むと、経済成長率が高まり、民の生活は道具面で目に見えて向上する。工業化の激しい段階では潜在的経済成長率の為に民はますます勤勉になる誘引をもつ。他方、土地の工場転換により農業力が次第に弱まるとき、技術革新の速度は余裕の逓減と利益についての工業上の特化率の為に緩まる。この特定の道具についての工業化の末期において利益追求が始まると、次第に工業内部から販売効率を求め商業化する。利益に関する効率の追求は奉仕産業(サービス産業)へ転換を促し、商業化が末期に至ると物品の交換を離れ奉仕産業のみで利益を最高効率化しようと図る。情報産業それ自体は商業ではなく、交換する物品としての資料(データ)の塊の生産と頒布は工業に該当する。虚業と呼ばれる各種の産業の内、情報を入れて日用品、便宜品、贅沢品を含む物品の交換に該当しないものが、本来の人的奉仕産業である。虚業にあっては金儲け、マネーゲームと呼ばれる様、金銭の交換のみから差額を占めようとする株取引、為替取引、金貸しなどの傾向が現れ、いわゆる金利生活者が登場するが、彼らが産業の極相であり、いわば腐敗した産業人となる。即ち金利生活者が多数化するに従って過当競争的となった末期商業市場では利益の奪い合いのみが集団極性化し、働くほど貧しくなるという搾取の拡大が際限なく広まっていく。こうして商業国では人口支持力の減退と出生率の急減、即ち滅亡が始まり、最終的には自然消滅するか、近隣の農工業国から分割割譲ないし編入支配されるに至る。侵略戦争が生じるのは商業化の過剰段階で独裁者(僭主)が当人の蓄財した富を維持拡張する為、衆愚の不満を対外敵意にむけかえる目的による。殖民地侵略も同様の意図で、僭主か寡頭者によるものである。衆愚あるいは民衆の敵意は内政に向けられれば革命か、外政に向けられれば戦争となる。対外戦争で勝利したとしても国富は争いに乱費され、当国の商業的な不利さは改善されない。他国の軍需で漁夫の利を得た場合も、凡そ一時的なものにすぎず自国の民の生活に由来した産業構造を抜本的にかえるに至らない為、却って他国依存が進み政治は不自由となる。防衛戦争を行う事も国富の乱費をもたらす上に、戦争という最も不幸な状況を招来する為、極力行わない方が商業上に有利である。これらの国の末期症状は商業化の腐敗によるものであり、当国の政治の行き詰まりで生じる。
 以上にあげた産業循環論は、国を何らかの国とみなせる連邦単位にあてはめるか、県あるいは市等のより小さな単位に、もしくは地球という巨視的な単位におきかえることもできる。この循環としての産業の見方を読者は、マルクス唯物史観とは別の立場から産業についての分析を可能とする枠組みで、厳密にマクロ経済学なものというよりは社会学的な産業解釈の一方法と考えてほしい。なぜなら微視的には常に反例が生じるだろうからだ。