2016年8月23日

議論について

ある命題の真偽ないし善悪を判断するに、発言者の属性(肩書き、学歴等)でそうする場合、確かではない。発言者の属性に基づく偏見(属性偏見)は判断を誤らせる。論理自体は真偽および善悪の基準ではない。修辞は哲学の目的ではない。真理は説明の長さによらない。特定の知識の有無のみが道徳知能の目安ではない。
 世界の現象を語る時に、複合的に捉える事(同一律的解釈)は、個別的な把握である。例、0から100までの解釈法として、0は0であり、41は41であり、100は100である。極論的に捉える事(矛盾律的解釈)は、全体的な把握である。例、0から100までの解釈法として、0は100ではない。二元論的に捉える事(排中律的解釈)は、その中間領域を含めて、総合的な把握である。例、0から100までの解釈法として、50:50と0:100。濃度的に捉える事(中庸律的解釈)は、その極端を含めて、分析的な把握である。例、0から100までの解釈法として、0~40と41~100の差異、0~100の濃度変化。即ち、世界現象の解釈には、最も基礎的なスズキ4思考法則ごとに、同一、矛盾、排中、中庸という4つの解釈法がある。いいかえると、基礎的な世界解釈法(スズキ世界解釈、鈴木雄介の世界解釈法)は4つあり、0は0が同一、0は100でないが矛盾、0:100が排中、0~100が中庸の解釈である。