2016年5月4日

茨城政治界の模範性

東京や関西とかかわるかぎり不幸にしかなりえない。愛知や静岡、北陸、西日本も、あるいは宮城とか神奈川も同様。これらの地域は商業化していて、人類へ害意や悪意をもっている。我々人類は商業民の間ではすこしも幸福ではない。商業とは悪なのだ。デリダはまちがえていた。商業とは悪の巣であって、善良な利他主義の正反対、即ち利己と敵意を表面的に愛想よく嘯く下賎の振るまいにすぎない。我々は非商業的にしか尊くなりえず、尊く商う、といった事はできない。商業は利を貪るかぎり全て卑しい。
 人類が仮言命法に従うのは最低限度の事であり、即ち営利活動とはこの最低限度の善意ですらないのである。営利を目的にした活動は人間を蝕む。商業に染められた悪魔は、ひたすら非人道にふるまう。
 善意の最低限度は、利率が全くゼロのふるまい、全く利がない活動以上の義による活動でしかありえない。定言命法はその人を赤字にし、さらに貧窮させる様にみえるが、実際は真逆である。幸福とは他者から疎まれない、それどころか感謝され、尊敬や崇拝をうける立場についての特性なのであり、社会的なものである。幸福は他者からの報いなので、個人がどれほど暴利を得ても、或いは暴利の地域に住まっていても、何ら返礼はえられない。人類が幸福になる為には、ただひたすら利他に殉ずるしかないのだ。一個人がえる個人的悦楽は、真の幸福ではない。幸福と快楽のちがいは、前者が他者の目からみて望ましい状態にある人生な事である。
 利他主義者は利益がえられず、清貧に留まり、世を憂いたり儚んだり隠者の様にくらすかもしれない。利己的な衆愚は、群れ社交し悪徳と錯誤、暴虐を恣にしている事だろう。中間的な凡俗は、利他の者を尊敬し、利己の者を軽侮する結果にしかなりえないのだ。こうして、政治界一切のなかでさえ、利己目的の者は暗愚な不幸の存在でしか全くありえない。
 ところで、営利のあとづけで寄付をした者が高徳かといえば、はじめから非営利で寄付をつづけた者に徳の面でまさる事は永久にない。人生では慈善によって極貧になり、そのまま死亡してしまう悲劇の人があったとして、営利の最中に暴利をにぎったまま死ぬ者もいる。つまり、貧富と死には直接の相関はない。慈善は暴利の反対概念で、デリダは資本主義の暴利を正当化しようとした。だが、それは不幸の原理にすぎない。
 現代社会で商業化が進んだ地域は、どこも一様に不幸になる。退廃し、格差のみ広がる。それも、利己集団の中では虐げられしかしない為だ。国全体が商業化した状態では、国民全部が不幸である。人生では、斯くの如き悪をさけるべきである。商業国家は破滅に向かうし、それは互いに暴利を貪りあう集団内では、悪魔しか栄ええないという最悪の社会におちぶれたからなのだ。裏を返せば、商人を蔑視し、農工業を重視する政治界が、健全な社会、地域の目安なのだ。この観点からも、茨城が日本で最も幸福度が高い地域な事は疑い様がない。極悪商業民は妬みによるいわれのない誹謗、悪意ある確証偏見で義人を罵るが、彼らがますます不幸になるのは必然なのだ。