2015年10月11日

日本のクリスマス分析

キリストの生誕祭を恐ろしく素朴に祝う大多数の平成時代の日本国民の中には、東京人を主に、科学的には不貞でしかありえないマリアという母とその子に訪れた聖人迫害の悲劇を、性の全的肯定として捉えなおしている人々がいる、と考える事もできる。多分、この都内マスメディアと商店を中心とした風俗を増長させた原因の1つに、早稲田大学生の乱倫を描く、京都・関西出身者村上春樹『ノルウェイの森』が講談社から、赤と緑のクリスマス色の装丁で大量に売られた事もあるのだろう。
 しかしこの商業化された祭りは、寄付のため贈り物を持ってくる聖人の比喩を発端として次第に誇張され、神の慈愛なる理念の啓蒙というイエスの意図とは異なる結果をもたらす程になっている。宗教的な意味を剥奪されたクリスマスは、世界の田舎者としての日本国民達の上に悲惨な勘違いを与え、商人、又は江戸以来の町人達の粋の病理を触媒に、性の肯定感を無用に強調しすぎている。そしてそれは12使徒達が捉えたキリスト解釈、その純潔主義的な物語への、大多数の東京民からの総合的な皮肉ともなっている。端的にいえば、科学的な意味におけるマリアと、東京民らは、紫式部を端緒とし本居宣長由来のもののあわれ論を無意識に持つ京都人或いは関西人という黴菌を通じて結託し、不倫を合理化している。この意味において滑稽化されたイエスの誕生日祝いは骨抜きとなり、宙吊りにされ、悪意のある東京都民が無自覚にキリスト教信仰を侮辱する、毎年の恒例行事となっている。