慶喜公は元治元年(1864年)3月25日将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督へ就任していた。同年11月下旬、公は皇室警護を目的に、天狗党鎮圧のため江州路(琵琶湖付近)で早々追討出張仕りたい旨を孝明天皇へ上奏した。その内容は「職掌にとり恐入り候のみならず、右の内私実家の家来も交り居り候得ば」と公の禁裏御守衛総督かつ水戸藩出身者としての責任感が窺える。一方の天狗党は諸生党を含む大発勢(幕府軍)と争いながら尊王攘夷を目的に西行していた為、幕府側では公が天狗党と気脈を通じているのではないかと疑いかねない状況もあった[1][12]。公にとってこの時点で琵琶湖付近で天狗党を迎え撃つ事は、これらの差し迫った状況、即ち幕府からの嫌疑の目を退けながら、御所警護を図る解決策だった[2]。
同年11月31日、孝明天皇から慶喜へ天狗党鎮圧軍への出馬許可が出た。その内容には朝廷の命に「但降伏致候はば相当の取計致すべき事」とある[3]。この曖昧な命令は、後に悲惨を
同年12月1日、武田耕雲斉ら天狗党一行は美濃の揖斐宿に到着した。この時、西郷隆盛の秘命を受けた桐野利秋(中村半次郎)がそこへやってきて武田に面会を求めた。武田は藤田小五郎や竹内百太郎へ彼と面会させた。桐野は薩摩藩が尽力するので本道(中仙道)を経て入京するよう天狗党一行へ進めた。しかし藤田らは彼ら薩摩藩側に感謝した上で、本道を行くのは断った[4]。恐らく当時の薩摩藩には文久2年4月23日(1862年5月21日)寺田屋事件以後にも誠忠組残党が残存していたので、尊攘急進派が公本陣と関わらないこの様な裏の手を回したのだろう。
同年12月3日公は山城を出発、大津に出陣した。節公も翌日、同年12月3日に本圀寺勢を率いて出陣した[5]。
同年12月7日、大津の総督公本陣から加賀藩、永原甚七郎に呼び出しが来て、大垣藩と彦根藩へ次の様な通達があった[6]。「薩摩藩賊徒による嘆願の節は公にないので、十分に討伐せよ」[7]。
同年12月10日には一橋家の探索人、渋沢喜作(渋沢誠一郎、渋沢成一郎)が葉原宿の金沢藩の陣へやってきた。喜作は次の様に語った。「河田十郎という薩摩人が美濃国と近江国の諸藩へ離間策の言を放ったのが知れた。拙者が濃州路で面会し彼を詰問した所、彼は大いに困惑したが、私は推してこれを追及もしなかった。公は薩摩遊説を知らないばかりか、寧ろ一橋卿の嫌疑を解くには速やかに武田勢を征討するに如かず」[8]
同年12月11日天狗党一行は新保宿に入った。ここで長州藩が密使を遣わして若狭国や丹波国を通って長州と共に行動する様に勧めてきた。天狗党側で72歳の山国兵部は、「是非そうしよう。ここで自首しても我らは滅ぼされる。華々しく一戦を交える為にも長州へ行こう」と主張したが、武田は次の様に言った。「国の正邪を明らかにし、先君烈公の遺訓を遵法、外敵を退け国威宣揚する為に常陸国を発ったが、二公に敵する事は臣子の情忍ぶべからざる所なので万事窮すというべきである。よってわが徒の態度はここに決した」[9]。
翌年、慶応元年(1865年)正月18日、田沼意尊が山城へ来て公に面会、公は以前からそうしようとしていた通り田沼へ申し入れた。田沼は次の様に言った。「天下の公論もこれあり、最もよき公平の処置方でなくては皇国人心の折り合いもあり、別して常野にもこれと同様、降伏の徒もあるからその処置は一致せねばなりませぬ」[10]
永原も朝廷も天狗党の助命嘆願をしていた、と茨城県立茨城東高等学校教諭、但野正弘は云う[11]。更に但野は、常野の浪士と幕府側に見做された天狗党を山城に入れない様にする事が禁裏御守衛総督としての公の役目だった、という。そして但野は降伏した者を受け取るのが浪士取締り役の田沼の役割だったので、公は天狗党を田沼へ渡さざるを得なかったという。
安政の大獄以後、桜田門外の変を通じ、天狗党の乱に於いては公の出陣した陣地となった彦根藩の士は、大獄と変の犠牲者数を遥かに超えた人数への斬首刑によって水戸藩士らへ復讐した。しかし、これら更なる数の殺人による報復の連鎖は、結局の所皆殺しに行き着くだろう。公的政府と名乗る勢力による殺人、即ち死刑に関する疑義が天狗党処分について萌芽的に見られると言えよう。
脚注
1 常磐p117-118
2,3 常磐p118
4 常磐p119-120
5 常磐p120
6 常磐p120-121
7 常磐p121
8 常磐p121-122
9 常磐p122-123
10,11 常磐p123
12 常磐p124
参考文献
常磐神社『徳川慶喜公――その歴史上の功績』常磐神社社務所、1998年