言語における普遍性は、それがある形式間の討議をへる為に損耗している。この対話は共同化として、ある人類の同類集団を少なからず倫理紐帯に結ぼうとする。こうして言語の普遍性は共同化形式という、詩劇上の命題へ返されてしまう。
言語の形式が移り変わる間には、社会課題の共有という演劇的側面が挟まれる。当期間を時代と我らはいう。時代共有化は同期化として理解できるが、ある文化素が別の社会に受け取られた時起きる。即ち同期化が、しかも普遍性という当為をめざすそれが哲学についての第一命題なのである。時をへての同期化は伝統領域をうみだし、同胞感情や共有認識を多数くみこませる。もし伝統を失えば人は、共有できるものを必要に応じてしかもちえなくなるだろう。十分な同期化が民族的意識もしくは国家的共同を、他者との間に結ばせる。同胞性の起源は、少なくとも詩劇の展開に関する限り言語の普遍性へのある意向であり、しかもその形式性は翻訳という橋を便宜としかみない。つまり詩劇は元々、言語理解度或いは語彙の流通というある文化圏の共有に由来した営為ゆえ、単なる生活の描写に他ならない。
言語上の哲学命題は、常に詩劇的当為の問題にすぎない。その普遍性すら社会課題への対応論をこえないのである。かといって、我らの徳目が徒労になりきるわけではない。第一に、過去の伝統の再適合の試みを温故知新として捉えられる。こうして哲学史や思想史が無意味化するわけではなく、唯に再考省力の蓄積がある。社会課題に対する変容は、唯物史観を除いても哲学上の条件を様変わりさせ易い。