2013年6月18日

社会性としてのミルの命題

ミルの命題はわれわれへ理性的存在であれと命ずる。そして理性的であるという事、本能という大脳旧皮質の側に対しては抑圧的で、社会性へ向けて昇華された行動を選択するという事、つまり定言命法に従えという事がミルにとっては普遍的な善の命題であった事を教えている。この良心は事実上人類を他の哺乳類から分かつ源泉ともいえ、理性の命題ともいいかえられる。
 理性のあるという点で、又それはくりかえし選択され強化されたある大脳新皮質側の展開された特徴だが、社会性をもつ習性が人類の中の良識として強調されてきた。この理性は幸福という言葉の内容を、本能の段階とは異ならせた。それがミルの指摘した、ソクラテスの豚との違いだった。理性はたしかに本能の様に利己的ではない。それは種の個体性をこえ、社会集団の一員としてのぞましい行動をくりかえしとりえる様に人類の総勢をきたえてきた。人類社会の環境はこの淘汰を、常に行なっている。それはある場合には群的ですらあった。戦争による大量死は理性の群淘汰を試みた結果といえるかもしれない。我々は理性の存在としてのみ、満足した結果に至ると先哲らは洞察した。理念はこうして、あるnationを結束させる原因の智恵だったと思える。
 ミルの命題は社会ダーウィニズムの前で肩身の狭い思いをしてきたが、事実それはいきのこった。良識的な社交性はその人々にとっての生活形態か、思想状態を示す。この心理的段階が、ミルの選ばせた能力としての理性である。理性の存在は利他主義を自己犠牲の中で実現させた。その結果、人々は以前より社会性を優れたものとするだろう。理性は公正や博愛、慈悲、公共性、福祉などの高貴な言葉で利己性をゆるめさせた。良識的な市民として、理性がめざしている段階は常に来世的でもあるだろう。それらは次世代と想定される未来を予想させ、人々に以前より積善的な習慣を選ばせた。文明というこの集積は、より悪質な習癖をさけさせ、人々の中に理想郷をいだかせる。幸福である為に必要な資質は、文明的場所では優れて理性的でなければならない。その相利的かつ互恵的利他性のたかい次元では、ミルの命題はすでに語るまでもない人々の習性或いは既にもっている表現形質の一部であり、息を吸う様に自然なのにすぎない。即ち、煩悩とか本能という面をいまなおなやましいもの、うとわしいものとしてひきずっている人類は、彼らを選択するだけ文明にさからう結果をもたらすのであり、その反社会性は嫌悪や侮蔑となって人々を失望させるだろう。退行は人類にとっては反作用として、むしろ文明の反面教育に類する。我々が悪徳とみなす習癖は理性からみて退行的なのであり、この持ち主を進んでさけるのは単に良心の為なのだ。有徳で、善良な人間は理性の存在として理想的な言動をとり、その行いは中庸であり、ある社会についていける程度の改善策を常々提出していける。この能力が、我々人類がもっていて他の生物と特徴を分かつ才覚なのだといえるだろう。社会性は理性の対人表現であり、内省性或いは思索性はその孤立表現といえる。