猪瀬直樹氏の文芸批評理論は、放蕩息子と家長というごく大雑把で恣意的な分類法で、文筆家を職業作家と「政治家に転身した作家」という二項対立にして都知事になった猪瀬氏自身の転進を正当化させる。だがこれは販売網の覇権構築に必ずしも成功しなかった芸術家が、世間的には読書人の少なさに比例して保たれている作家という現世的名分を売名スキームとしてのポピュリズムに結びやすい事を、悲しくも都知事三代の系譜で宣伝してしまっている。いいかえれば脆くも衆愚政治の目下流行中の形態であるポピュリズムが、その正当化に見出した絶望した理屈ではある。
一方で愚劣な恥ずべき放蕩家でありそういう小説を流布した社会に害の甚だしい極悪犯罪人へ、ここで猪瀬氏から批判されている内容には確かな真相がある。それは個人を追求した漱石より権力に寄生し続けた鴎外の方が倫理観は低く、明らかに放蕩家であるという文学への無理解の部分も含め、恣意的な権力者の自己正当化である以外に全く無意味な批判ではない。そして東洋、特に漢語文化圏で既往の儒教的価値観は、政治参加を文章家らの目的性に仕立てて来た事ともこの現職都知事による老獪な転身合理化の理論は一致している。更に、責任を引き受けるという面で猪瀬氏が職業替えを合理化したがっている点は、実は政治家に転身した作家が権力を揮えるか、それとも職業作家としての売文生活かという、文章の売り上げや歴史的貢献度といった芸術家の立場の問題ではなく、単に社会的責任感や倫理観の次元というその人の個性の問題でしかない。