私がこの世で見た全ての人間の内、最もあしき連中は哲学性がなかった。理性に落ち度があって、他人を他人と思わないばかりか、自分より尊敬すべき相手から学ぼうとはせず、却って彼らを排除し或いは攻撃した。この俗物は増長し、得意がり、大変劣った振る舞いをして善人を誹謗し、その名誉を甚だしく毀損し、粗暴の行いにより世間に権益を伸ばしながら錯誤と搾取をくりかえし、何ら無反省だった。
俗物達は寄り集まり慰めあい、同類のすみかである大商業都市を作り出した。このすみかでありとあらゆる悪循環と悪意ある行いをしながら金銭と売名を貪り、肥え太り、他の立派で善意のある人間へ侮辱を働きながらどんな理性をも軽蔑していた。
私がこの世で見たものの内、これら俗塵の衆愚程醜いものはなかった。この醜悪極まる集団は遅かれ早かれ絶滅していくだろう。彼らには悪徳のはっきりした兆候があり、そこで何をなそうと所詮、善事には至らない。行いは悉く邪悪なので、誰それを頼ろうともそれらの人々は一様な迄に悪人であって、結局は破滅していく道のりの上にあった。
又科学者と呼ばれる人間を見たが、これらの人々は極めて狭い専門についての特殊に伸ばされた知識を除いて決して善に詳しくはない。いわば判断、理解、物事の認識や処理に最善な者達ではない。彼らの系列はいずれ他の機能、或いは機械に補完されるだろう。科学についての過信や信心は近代の一つの宗教であって、流行がすぎればそれがある思考形態としての時代類型でしかなかったと広く認知されるだろう。
人間のよしあしは、究極の所哲学のそれに求まり、この追求についてのみ人間性に遥かな格差が生じている。この格というものは半ば遺伝的であり、教育の選択的裏付けになる一般知能を性格として個性へ伝承している。
特に、私にとって意味をもつ「己に如かざる者を友とすることなかれ」という『論語』の文句は、人生観のある核心を示し、この友情の域は完全に一般知能としての性格の地域偏差に依存的だった。歴史を動かしている歴然性は同類の社会化を第一原理とし、異なる民族或いは同朋連帯として仲間を分割しすみわけさせ地域化していくだろう。風習や風俗、文化と慣習の違いはこの倫理的な原則に及び、やがては人格にすらはっきりした違いをもたらさせる。
こうして哲学が社会学の上位にある人間倫理の学問であり、それが道徳観の語りをもたらすのは、それぞれの社会が異なる一般知能の成果を勲功としてもつからで、恐らくこの理性界の巨大な成果物として家々からなる街、都市、国家とその連合が規定される。乃ち理性界というもの、つまり理想が総合されて人類の共通化した世界観ができあがる。情報伝達のあらゆる様式や、言葉と記号によるその工夫はこの社会化の共有基盤として働く。
人類が共に追い求めているのは究極の理性であり、最善の社会と、そこでの哲学性であるといえる。我々の言葉が各民族や各文化圏で大幅に違う訳も、最善さについて異なる理解があるからで、この審美観は趣味を通して語順や発音へのえりぬきを日々洗練させゆく。
人類の大きな世界観にとって最善者が最も道徳的な社会を、よって永続した進化に最も近い筈の文明をもつという悟りは偉大な希望であり、我々が日々観察を余儀なくされた俗物の住む俗塵の滅亡がはっきり予想できると共に、現在から未来に渉って極めてよい社会が確実に生き残りの集団を見つけ、その哲学的友情を育みなす事が見通せる。哲学の道が結局、最も遠回りに見えながらも最短で約束された世界観に至る最初の路程なのがここから導き出せる。徳孤ならず必ず隣あり故に、よい人間は、当然よい隣人をもつ事になるだろう。このよい社会にとってあしき社会は反面教育にのみ役立ち、必ずや混じり合う事がない。この分流された社会潮流は国家の哲学がよいか否かに依存し、盛衰をみせる理由でありゆくだろう。そして又このわけからは社会集団の規模、つまり人数が必ずしも最善性の目安ではなく単に同族的一般知能水準の集まりである事、いいかえれば同程度の倫理の認識しか持たない事を示し合わすのみだろう。我々の内、耐え難い迄の不道徳や不倫へ怒りや憤りという正義感が目覚めさせられる場面は一様にこの理性の程度に応じた社会的性格によっている。精神性の高い国は同時に高貴な倫理原則を無数に内在化した場所だから、不純な存在は棲息の途がないだろう。そして我々の誰もが実はこの最善の精神の国を目指し、哲学的探索を日々続けてきたのだ。我々の転地や配偶行動、活動や会話にもこの最善性への根強く、しかもそれしかないという程決定的な関心がみられる。端的に、人類が求める目的は理性の完成度であって、ありとあらゆる行動にはこの目的に関する彼ら各々の選択された態度が含まれるだけ、といえるだろう。従ってこの態度、対人乃至は単独での行為が世界の最善さと反すると認識された途端、人類は罪悪感や羞恥心、自責の念、嫌悪感、嘔吐感、不快の念などの反作用を覚える。快苦の原理が同類的な相互理解の上の応酬性にある。「人の望む通りの事をせよ」や「己の欲せざる所人に施す事なかれ」はこの義であり、この官能、或いは認識、感覚、意識が基づくものこそ我々の理性であり、その内容や中身としての哲学、或いは一般知能という判断と理解、物分かりの働きなのだ。
最善者はこうして最高の哲学と一致し、その伝達や伝承をほぼ遺伝的にも確立するだろう。というのは、こういった最善性は性格と呼ばれるだろうし、それは知能の質という遺伝的基礎にこそ宿る。そして最高哲学は伝承の際にこの遺伝の基礎を用いていく。同族的な仲間が同じ言葉による共通認識をもちやすくなるのはこういった由によっており、それは日々の生活形態が彼らの環境誘因へ引っかけたある習性をも意味させるだろう。