旧約聖書の神あるいは創造主は善悪の実をとおして古代ユダヤの立法者らの権威構造へ加担した可能性もあるだろう。
ジーザスが現れ、この負担の過剰さを購うべく自己犠牲につとめる前には、想像を超えて当時の西洋南部の民衆を、この選民的立法集団は心理と財産両面から圧迫していたかもしれなかった。だから、他の価値にくらべて原罪の素に「善悪の判断力」あるいは理性を置いたのかもしれなかった。
もしこの善悪への知慮さえ民衆がわになければ、当地の法律による集団は単に十戒をいれた進んだ知識水準のために、およそ経済的や政治的にすら他より優位な社会的有利さを維持して行けたのだろう。
同様の思想絶対主義とでもいえる知識の独占へつながる意向は儒教、あるいは『論語』にも「民に知らしむべからず、由らしむべし」の項へみられるのであり、特定の集団が知識を独占したときどこでも起こりやすい集団性の独断、ばあいによってはひどいまちがいをふくむいいがかりでさえありえてきたのかもしれなかった。
我々が啓蒙という言葉にみいだそうとするのはこれらの現象の反語だろう。単にほかより博学というだけではなくて更に啓蒙家とみた知識人こそが、だから本来の知識ある者、知性人、homo sapiensとして本質から定義されるべきなのだろう。
たとえば「何々すべき、すべし」といった文法やいいまわしの意味合いもこの啓蒙の光、ある個性からはじめていわれた真相の独創的なうがちにしかやどりにくかったのだし、これからもそうだろう。この推量と義務をかねた助動詞の意味はもともと何々した方がよい、といった将来予知の伝えについての定式化らしかったから。
もっとも原始的な啓蒙家は「消極的な常識を守ること(カントによる定義によれば)」を以て、世間があざむかれやすかった特定の知識集団の利害関係へ、よりくわしい観点から注意深い制裁を与え得る。高い工学の危機へはこれらの啓蒙に能のある知識人こそが有徳なのだろう。
(事実、『旧約聖書』の箴言にさえこれら本来の知識人がそこでいう複雑な信仰の簡略化もしくは理解と頒布へ有益と説かれているのは、ある程度以上の神学者には何人も分かる筈だ)。