2012年2月6日

商業的児童搾取の禁止論

児童からの搾取を目的としたある制作としての猥褻物と目される表現は、自体が商業用にされている場合に限って規制されて構わない。この再生産を促しているのが明らかであり、ただ一個人の表現の探求という埒をこえて、公共の福利に関わる共通貨幣との交換を目論んでいるので、その通貨を用いえるなにびともそこからはなれてありえないからだ。

特にこれらが公然と陳列されたり、一般公衆の目の当たりにする場所で白昼堂々頒布販売されている時にはいかなる制止にも値せずその社会を構成しているすべての善良な市民が問題視しなければならないだろう。そこで犠牲になっているおさない人物を救い、また彼らの低落した倫理観をあらゆる宗教感情に訴えてでも啓蒙するのが専ら人間の良心というものだからだ。

 同時に、これらの表現物が「再生産もしくはその制作を経由した商業的利潤を目的とせず」、単なる個人の傾向もしくは何らかの異なる目的のために現実の描写や写実、あるいは想像を媒体へ定着させた創作であった場合、必ずしも倫理的規制の目当てにかなうかは確定できないだろう。

これらは真摯に単なる体型やその行状の審美性、或いは医学からの解析的意図を含めて人類の道徳的意識を問い直すために、いわば大勢の人目にはつきそうもないある問いかけとしてなされることもあるかもしれない。過去の人類史をたどっても、少数ではあるが児童とか女性、あるいは異常な性癖をもった人物を戯画的もしくは風刺的に活写してきた表現物が一定の留保のもとでいくらか問題視されたりしてきた。
 しかし、これらが人類の置かれた社会文化的状況を批判的に考証させえる力をもっていることだけは確かな限り、当文明の警察組織を含む行政権力が無闇に介入するのは常に正しいこととは限らない可能性の方が高そうだ。なぜなら、はたして疑義にあたいするかどうかを問いかける際にまずそれらがなければならない、という社会的状況の多様性がまったくそれらが抑圧されきっており人々の無意識におしこめられている、といった単一な文化に於いてよりも、これまでの人類がたどってきた方向性をみかえせばだが、有徳そうだからだ。

どのみち、それらが明らかに悪意あるわけではなく且つ利潤を営む目的でなかった場合は、大多数ならびに一般公衆はそれら特殊な表現物を単にある好奇に応じてしか観察もできないだろうし、それらを批評させる際にさえ当の表現物を人目に与えるしかないことを省みれば「表現の自由」が特定の児童ならびに実在の人物を商業的に搾取する目的でない限りは、他に適法性からの矛盾のない範囲でこれらの要素を寛容に扱っていく方が、文化の状況はより好転しやすいというかなり不思議な真相がありそうだ。具体的にはどうやらある程度の露悪というものが人々の反面教育に処するのは、実物や事件そのものではないたとえを通して反省力を深める様な観照、或いは客体的観察の原則のもと一定の効果がみこめる証らしかったから。